1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災は、関東一円の鉄道構造物に甚大な被害を及ぼしたが、とりわけ神奈川県下と千葉県下の被害が大きかった。東海道本線の茅ヶ崎~平塚間に架かる馬入川(ばにゅうがわ)橋梁では、上下線に架かる合計56連の上路プレートガーダのうち大半が落橋し、転倒した橋脚とともに馬入川(相模川)の河原にその無惨な姿を晒した。
被災時の馬入川橋梁には、1887(明治20)年7月に開業した上り線側に28連の上路プレートガーダが架かり、1900(明治33)年4月の複線化の際に開業した下り線側に28連の上路プレートガーダが架かっていた。その後、1922(大正11)年に強度不足となった一部の桁を補強または交換し、橋脚の一部を改築した。
「関東大震災・メチャメチャになった馬入川の鉄橋」と題した絵葉書は、平塚方(右岸側)から撮影した震災直後の馬入川橋梁で、橋脚はことごとく倒れ、桁が河原に散乱している光景が記録された。
幸い、馬入川橋梁では通過中の列車が無かったため、人的な被害は伴わなかったが、上下線を同時に失った影響は大きく、ただちに復旧工事に着手した。復旧にあたっては、単線で開業することを最優先し、在来下り線の橋脚基礎を利用して木製の仮橋脚を設け、橋脚用の木材は神奈川県庁で施工中の馬入川橋(道路橋)に使用する米松材を借用した。また、落橋した桁の一部を再利用したほか、平塚駅に貯蔵していた1922(大正11)年に架替えた際の旧桁を再利用した。
工事は1923(大正12)年9月10日に準備工事に着手したが、折からの豪雨による増水で足場を流失するなどの災害に遭遇し、営業列車の運転を再開したのは同年10月21日であった。
(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2021年3月号掲載)
Q&A
馬入川と相模川は何が違うんですか?
馬入川と相模川は同じ川です。馬入川は、相模川の下流域で呼ばれている名称で、上流の山梨県では桂川と称し、神奈川県では相模川と名を変え、下流では馬入川と呼ばれています。全国的にも長大な河川では上流と下流で異なる名称で呼ばれることがあり、たとえば信濃川水系の信濃川の本川は、長野県下では千曲川で、新潟県下では信濃川を用いています。多摩川も下流では六郷川と呼ばれるため、東海道本線の橋梁は多摩川橋梁ではなく六郷川橋梁と称しています。(小野田滋)
”東海道本線・馬入川橋梁(神奈川県平塚市)”番外編
今回の最後のほうで紹介されている旧相模川橋脚って何ですか?
茅ヶ崎市にある「旧相模川橋脚」という史跡で、鎌倉時代の橋脚の遺跡だ。
こんな形のままで鎌倉時代から残っていたんですか?
見えている部分はレプリカで、本物はこの下に埋まっている。実は関東大震災の際に田んぼの中から突然橋脚が出現した。
ええっ⁉地震に驚いて地中から飛び出したとか……。
何を馬鹿なことを言っておる。地震の液状化現象が原因だ。
鎌倉時代で思い出しましたけど、馬入川は源頼朝と何か関係があるって聞いたことがありますが。
「吾妻鏡」によれば、相模川の橋の完成式の帰路に落馬して、それが原因で亡くなったとされている。
それがこの橋ですか?
時代的には合っているから、その可能性が高いとされている。1926(大正15)年には国の史跡に指定された。
東海道本線にも関東大震災で被災した馬入川橋梁の橋脚が残っているから、震災の遺構としても貴重ですね。
旧相模川橋脚も、関東大震災の地震状況を示す遺産として評価されていて、2013(平成25)年には国の天然記念物に指定された。
もうひとつの陸軍架橋記念碑は、何か鉄道に関係があるんですか?
それは、関東大震災の頃に建設が進められていた、道路橋の馬入橋の記念碑だ。馬入橋のたもとに建っている。
同じ頃に完成したんですか?
道路の馬入橋は東海道本線の馬入川橋梁のやや上流側に並行して架けられ、工事は震災前から始まっていた。
陸軍ってことは、軍の施設と関係があったんですか?
軍の施設とは関係ないが、関東大震災で被災したので、豊橋と京都から陸軍の工兵隊が派遣されて復旧工事が行われた。
その記念碑なんですね。
本文にもあるが、東海道本線の馬入川橋梁を震災復旧する際に、道路橋の建設のために確保していた木材を融通してもらったとされる。
それが、仮復旧の写真に写っている木造の橋脚ですね。
災害の復旧では、組織の垣根をこえた協力が必要になる。
相模川の橋は、深掘りするといろいろエピソードがありそうですね。
今回は橋脚がポイントだな。
橋が無くなっても、しぶとく残るのが橋脚の痕跡ということですね。