中央本線の立川~日野間に架かる多摩川橋梁のうち、上流側に架かる上り線の上路プレートガーダは、1889(明治22)年、私設鉄道の甲武鉄道(1906(明治39)年の国有化で中央本線の一部となる)によって立川~八王子間が開業した時から原位置に架かり、下部構造を含めて建設時の構造物を現在も使用し続けている。
多摩川橋梁の上り線は、すべて単線上路プレートガーダで、径間構成は東京方から支間22.30m×1連+支間22.15m×18連の合計19連、橋長444.0mという規模である。1連と2~19連で桁の長さが異なるのは、1972(昭和47)年に1連目を交換したためで、2~19連に明治時代の桁が架かっている。
桁は作錬式と呼ばれる日本で最初のプレートガーダの標準設計に準じているが、これは来日したイギリス人技師のチャールズ・アセトン・ワットリー・ポーナル(1848~1920)によって1878(明治11)年~1885(明治18)年にかけて設計されたわが国最初のプレートガーダの標準設計の総称で、材料は錬鉄製であった。
建設時の橋梁下部構造は煉瓦と石積みによる重力式の橋台、橋脚であったが、コンクリートを巻くなどの補強が行われたため、ほぼ原型をとどめているのは、第12橋脚のみである。なお、基礎には、楕円形のウェル(井筒)が使用された。
桁は、列車荷重の増加とともに振動が激しくなったため、1933(昭和8)年に電気溶接によってカバープレートを上下のフランジに添接し、設計荷重KS15相当に耐えられるように補強された。また、1937(昭和12)年に行われた複線化工事によって、下り線側には上路プレートガーダが架設され、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2022年4月号掲載)
Q&A
多摩川の左岸に、中央線から分かれて「貨物線」と書かれた線路が延びてますが、何を運んでいたのですか?
川砂利を運んでいました。砂利は、セメントや砂、水と混ぜてコンクリートとして使われました。東京の周辺では、鬼怒川、多摩川、相模川などで川砂利を採取して、鉄道で運搬していました。しかし、川砂利を大量に採取することによって河床が低下し、堤防や橋脚、用水路などに悪影響を及ぼすようになったため、1956(昭和31)年に砂利採取法が成立して規制が厳しくなり、川砂利は廃れて砕石へと移行しました。(小野田滋)
”中央本線・多摩川橋梁(東京都立川市/日野市)”番外編
師匠、多摩川橋梁の橋脚に使った煉瓦は、どこで製造されたんですか?
甲州街道の日野宿に設立された日野煉瓦から供給した。
甲武鉄道の工事にあわせて設立されたんですか?
1887(明治20)年に設立されて、翌年1月から煉瓦の生産を開始したから、ちょうど甲武鉄道の建設が始まる時期だな。
先見の明があったんですね。
日野宿の有力者の土渕英(つちぶち・はなぶさ)らによって設立されたが、自主的に設立したのか、甲武鉄道が支援したのかはわからない。
工場はいつまであったんですか?
それが、土渕の急死や、甲武鉄道の完成などで1890(明治23)年8月には廃業してしまった。
たった2年半で廃業してしまったんですね。
当時は、煉瓦を大量生産できる工場が少なかったから、工事現場の近くに期間限定で小規模な工場を設けていた。
地産地消の煉瓦ってことですね。
中には地元の煉瓦工場として存続した会社もあったが、日野煉瓦がそのつもりだったのかどうかはわからない。
ってことは、煉瓦の工場の設立と鉄道工事の関係を調べると、煉瓦の歴史がわかるってことですね。
そのことなら、『鉄道と煉瓦』(鹿島出版会・2004)という本に書いたぞ。
最後にちゃっかり番宣しないでくださいよ。