長野県から新潟県へ流れ、日本海へと注ぐ信濃川は、日本一の長さを誇る川として越後平野を潤してきたが、しばしば水害をもたらす暴れ川でもあった。このため、大河津(おおこうづ)付近で分岐して日本海へ直接流下する分水路の開削が江戸時代から請願されていた。この計画は、明治維新直後の1869(明治2)年にようやく具体化されたが、1875(明治8)年に中止されてしまった。
その後、1909(明治42)年に内務省の治水事業として工事が再開されたが、ほぼ同時期に新潟と柏崎を結ぶ越後鉄道(のち国有化されて現在の越後線となる)の建設が進められ、1913(大正2)年に開業していた。しかし、大河津~地蔵堂間に大河津分水路が新設されることとなったため、1923(大正12)年に信濃川分水橋梁が完成した。この時に架設されたのは、明治時代に東海道本線などで用いられた支間200フィート(約61m)のイギリス製ダブルワーレントラスで、「信濃川分水路橋果」(「果」は「架」または「梁」の誤植?)と題した絵葉書には、架設がほぼ完了して通水を待つばかりの信濃川分水橋梁の全景がおさめられている。
端柱に記されている「15」という数字は橋梁の連数を示しているが、信濃川分水橋梁は9連で構成されるので、おそらく転用前の橋梁の標記がそのまま残っていたものと推察される。架設時期や15連以上を数える橋梁であったことを考慮すると、1913(大正12)年に架け替えられた東海道本線の天竜川橋梁(19連)から転用された可能性が高い。
大河津分水路は1924(大正13)年に完成したが、工事中に地すべりが発生したり、完成後に自在堰が陥没したため、その後も補修工事が継続された。また、信濃川分水橋梁も老朽化が進み、1949(昭和24)年に架け替えられて、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2018年12月号掲載)
Q&A
橋梁でよく聞く「連数」は、どのように数えるのですか?
橋梁の両端部は必ず縁が切れた状態となりますが、これをひとつの単位とした橋梁の数のことです。単純桁はこれが1連となり、3径間を構成する場合は3連となります。連続桁や連続トラスでは、3径間で連続している場合はこれをひとまとめにして1連と数えます。(小野田滋)
”越後線・信濃川分水橋梁(新潟県長岡市/燕市)”番外編
師匠、信濃川大河津資料館の近くに「信濃川補修工事誌」って記念碑がありますけど、何を補修したんですか?
大河津分水路は1922(大正11)年に通水して、1924(大正13)年に竣功式を行なったんだが、1927(昭和2)年6月に自在堰の基礎部に洗掘による空洞が生じて陥没したため、信濃川の本流に水が流れなくなってしまった。
どうなったんですか?
信濃川下流の用水路が枯れて、舟運ができなくなり、逆流した海水で上水道に塩が混じるようになってしまった。
内務省の威信がかかっていた工事だから、大変ですね。
そこで、青山士(あきら)が内務省新潟土木出張所長に着任して、直ちに補修工事を開始した。
パナマ運河の建設にも携わった人ですよね。
お前さんもよく知ってるな。
どんな補修工事をしたんですか?
壊れた自在堰を撤去して、新たに可動堰を完成させた。
自在堰と可動堰は何が違うんですか?
自在堰も広い意味では可動堰になるが、最初に用いられた堰はベアトラップゲートと呼ばれる起伏式の一種で、特殊な設計で機能が不足していた。
可動堰では、どこが改良されたんですか?
新しく設置した可動堰は、上下に門扉を開閉する方式で、止水が容易で信頼性も高かった。
記念碑には、「萬象ニ天意ヲ覺ル者ハ幸ナリ」「人類ノ爲メ、國ノ爲メ」という言葉が書かれてますけど。
青山士の言葉だ。版画家の棟方志功がこの碑を見て「いい言葉だねえ」と感動し、版画として残したほどだ。
僕もそのうち名言を残せるように頑張ります。
お前さんの場合は、「名言」ではなくて「迷言」だろう。
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