ドボ鉄152移転した横浜駅

絵はがき:東海道本線・2代目横浜駅(横浜市西区)


 1872(明治5)年に新橋~横浜間で日本最初の鉄道が開業したが、当時の横浜駅は現在の根岸線・桜木町駅のあたりにあった。この時点で線路をさらに西へ伸ばす計画はなかったが、乗降場は新橋駅のように完全な行止まり式の頭端ホームとせず、片側に寄せて通過線を確保することにより将来の延伸に備えた。
 1887(明治20)年には現在の東海道本線の一部となる横浜~国府津間が開業したが、横浜駅から先は通過式ではなく、スイッチバックで程ヶ谷(現在の保土ヶ谷)方面へ至ることとした。このため、横浜駅で機関車を付替える必要が生じ、輸送上の隘路となった。
 その後、日清戦争を契機として1894(明治27)年に神奈川~程ヶ谷間を短絡する軍用貨物線が建設され、1898(明治31)年には旅客列車も通過するようになった。さらに1915(大正4)年には、東海道本線を軍用貨物線のやや東側の高島町付近を経由するルートに新設して2代目の横浜駅を新築・移転し、初代の横浜駅は桜木町駅に改称された。
 「横浜停車場」と題した絵葉書は、この際に完成した2代目の横浜駅を撮影したもので、前年に開業した東京駅よりも規模は小さかったが、中央にピナクル(小尖塔)を設けた煉瓦造のルネサンス風建築として完成し、駅前を高島~保土ケ谷間の貨物線が高架橋で通過した。
 この改良工事によって、スイッチバック運転は解消されたが、8年後に発生した関東大震災で被災し、復旧ののち1928(昭和3)年には現在の地へ再移転した。このため、2代目の横浜駅はわずか13年の使用で姿を消したが、2006(平成18)年にマンションを建設した際に2代目駅本屋の基礎部分が発掘され、その一部が現地で保存されている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年2月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

鉄道が開業した時の横浜停車場は、将来、線路が西へ伸びることを前提として建設してなかったんですか?

A

本文でも触れていますが、いちおう先に伸ばせるようになっていました。始発となる東京の新橋停車場は頭端式と呼ばれる行止まりのプラットホームでしたが、横浜停車場はホームを駅の中心軸からシフトして、いちばん南側の線路は将来先に伸ばせるように考慮していました。しかし、三浦半島の丘陵地を横断するためには難工事となることが予想され、結果的に旧東海道の程ヶ谷、戸塚を経て大船へ至るルートが選択されました。このため、東海道本線にスイッチバックが生じてしまいました。(小野田滋)


”東海道本線・2代目横浜駅(横浜市西区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

2代目横浜駅の絵葉書ですが、駅前に橋のようなものが横断してますけど、何ですか?

師匠

ああ、あれは貨物線の高架橋だ。

小鉄

どこを結んでたんですか?

師匠

東海道本線の鶴見から分岐する東海道本線の貨物支線で、高島貨物駅から新港埠頭を経て横浜税関へ至る貨物線と、東海道線の程ヶ谷方面へ至る貨物線が分岐していた。

小鉄

貨物列車のための高架橋だったんですね。

師匠

二代目の横浜駅は、東京駅と同じ年に完成した。

小鉄

何となく東京駅と似てますが、辰野金吾の設計ですか?

師匠

辰野金吾ではなく、当時の鉄道院に在籍した久野節や長谷川馨、佐伯貫一が携わっていたようだ。

小鉄

そういえば、尖塔は東京駅には無いですね。

師匠

東京駅も、最初の辰野金吾案では中央に尖塔があったんだが、最終案では採用されなかった。

小鉄

でも横浜駅では尖塔にこだわったんですね。

師匠

特に長谷川馨は尖塔にこだわっていて、原宿駅はその代表作だ。

小鉄

ほかに東京駅と違う点は何かありますか?

師匠

2代目の横浜駅の改札口は2階にあった。

小鉄

あっ、ほんとだ。「階上平面図」に改札口が描いてありますよ。

師匠

それと東京駅と違って、東海道本線の列車線、貨物線、京浜電車線に囲まれた三角形の平面に建設された。

小鉄

たしかに、正面は東京駅と同じように横長に見えますけど、平面図で見るとずいぶん変わった形の建物だったんですね。

師匠

跨線橋の配置なども独特だ。

小鉄

駅は正面だけでは判断できないってことですね。

師匠

駅は、建築としての駅の建物だけに注目しがちだが、肝腎の機能は駅の構内を含めた全体のレイアウトにある。

小鉄

なるほど。

師匠

そこが駅の歴史を調べる時の、土木と建築の視点の違いだ。

小鉄

今回の横浜駅も、土木の目線で見ると突っ込みどころがいろいろありますね。

師匠

ある意味では東京駅よりも興味深いぞ。

関東大震災被災写真
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