ドボ鉄170ドイツ製トラス橋と甲武電車の登場

絵はがき:小石川橋通架道橋(中央本線水道橋~飯田橋/東京都千代田区)


 中央本線水道橋~飯田橋間に架かる小石川橋通架道橋は、江戸城外濠が神田川と日本橋川に分岐する場所の日本橋川に架設され、中央本線御茶ノ水~八王子間の前身である甲武鉄道によって1904(明治37)年に完成した。日本橋川は、江戸時代の二代将軍・秀忠の頃に駿河台を開削して神田川を設けたため、その掘削土砂よって埋め立てられていた。明治時代になって、日本橋方面への舟運を確保するため開削工事を行って日本橋川として復活し、甲武鉄道もここに橋梁を架けることとなった。
 小石川橋通架道橋は、開業時より複線として建設された。径間構成は、水道橋方から下路プレートガーダ×1連+上路ワーレントラス×1連+下路プレートガーダ×2連で、トラス橋の部分は同一設計のトラスを単線並列で架設した。これらはすべてドイツ製で、現地に架かるプレートガーダの主桁の側面(ウェブ)には、ドイツのデュイスブルクにあるハーコート社が1904(明治37)年に製造したことを示す銘板が取り付けられている。
 明治期に輸入されたドイツ製のトラス橋は、もっぱら九州鉄道(現在の鹿児島本線など)で用いられ、独特の弓形をしたボウストリングトラスで知られる。これに対して、小石川橋通架道橋は日本が輸入したドイツ製の橋梁としては唯一の上路ワーレントラス橋であった。
 「東京百景之内 飯田高架鉄道」と題した絵葉書には、日本橋川に架かる小石川橋通架道橋のトラス橋の上を甲武鉄道の電車が通過するが、蒸気機関車を用いていた甲武鉄道は、1904(明治37)年8月21日に中野~飯田町間を電化して電車を走らせた。電車は、すでに路面電車として市内交通で実用化されていたが、蒸気鉄道を電化して電車を走らせたのは甲武鉄道が始めての試みで、東京帝国大学工科大学電気工学科を1900(明治33)年7月に卒業した市来崎佐一郎(いちきざき・さいちろう)を電気技術者として採用し、同社の電化工事にあたらせた。小石川通架道橋を含む御茶ノ水~飯田町間は、同年12月31日に延長開業した。
 電車の編成は、前後の電動車の中間に付随車1両または2両(当初は従来使用していた客車を付随車に充当していた)を挟んで連結し、1箇所の運転台で制御できるよう総括制御方式を採用した。しかし、当時の写真等によればほとんど電動車のみの単車で運転していたようである。また、万世橋への延長線が開業した時点で大形のボギー車両を導入する計画であったが、鉄道国有化によって甲武鉄道の時代には実現しなかった。
 電動車は軸距10フィート(3.048m)のブリル21E型台車を用いた2軸の木造車で、最初に登場した16両にはスブレイグ式総括制御装置を用い、主電動機としてゼネラルエレクトリック社製のGE-53-A型(42馬力)を2台搭載した(諸元はのちの改造等により微妙に異なるが、ここでは市来崎佐一郞「甲武鐵道株式會社市內線電氣鐵道紀要」『工学会誌』No.273(1905)の製造時に近い数値に基づく)。また、真空ブレーキが主流であった時代に空気ブレーキを採用し、ユニオンスイッチ&シグナル社製の円板式自動信号機の採用とともに、高頻度で運転される都市鉄道にふさわしい先進的な運転保安設備を整えた。
 なお、1904(明治37)年に登場した甲武鉄道の電車のうち1両が松本電気鉄道(現在のアルピコ交通)を経て鉄道博物館(さいたま市)で保存され、松本電気鉄道ハニフ1形客車(旧甲武鉄道デ963形電車)として廃車時の姿で展示されている。(小野田滋)(書き下ろし)

※「市来崎」の読みは「いちきざき」とする用例が一般的であるが、坂元俊雄編『忍草』市来崎佐一郎君追懐録編纂事務所(1933)では「市来崎家の家系とその発祥地」という章の中で、鹿児島県出水市米ノ津の対岸に市来崎(いちこざき)という岬があることや、島津家の古文書の諸家系図文書には市来崎を「いちくさき」と明記していることなどを指摘した上で、市来の「来」にいったん「後」の字をあてて「市後崎(いちござき)」としたものの、再び市来崎に戻した際に「いちきざき」と発音するようになったのではないかと推定している。また、東京大学工学部で所蔵されている英文の卒業論文では「Ichikuzaki」と記しており、少なくとも青年時代は「いちくざき」を称していたと考えられる。日本の戸籍制度ではふりがなを要求しないため漢字を自由に読み下すことができ、一般的に用いられている読み方や、本人が自称する読み方が名前として慣用された。

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

市来崎佐一郎はどんな方ですか?

A

市来崎佐一郎は、1876(明治9)年8月13日に鹿児島市で生まれ、1890(明治23)年に東京へ出て、第一高等中学校を経て1897(明治30)年9月に東京帝国大学工科大学電気工学科に進学しました。同校を1900(明治33)年7月に卒業して甲武鉄道に入社し、同社の電化工事を担当しました。市来崎は、恩師の山川義太郎や玉木弁太郎などの支援を受けながら発電所や変電所、電車線、電車の設計にあたり、1904(明治37)年8月21日に甲武鉄道は中野~飯田町間で電車運転を開始しました。当時、南海鉄道でも蒸気列車の電化を計画しており、先例となった甲武鉄道を見学するために訪れた同社取締役の大塚惟明に請われ、1905(明治38)年11月に南海鉄道へ転職しました。南海鉄道では臨時建設部電気主任(のち電気課長を兼務)に就任して電化工事に従事し、1907(明治40)年8月21日には難波~浜寺公園間が直流600Vで電化開業し、1911(明治44)年11月21日には和歌山までの全線電化が完成して、旅客列車はすべて電車列車となりました。南海鉄道の電化では、最初からボギー式の「電1形」電車を投入し、1909(明治42)年に登場した「電2形」からは総括制御方式を採用して、「電列車」と称して編成を組んで運転されました。1913(大正2)年11月には海外の電気事業を視察するために洋行し、翌年5月に帰国しました。1916(大正5)年頃には、鉄道院次官の石丸重美から鉄道の電化工事を本格的に行うにあたって、電気の専門家として勅任官待遇で鉄道院技師に迎えたいとの話が持ちかけられましたが、熟考の末に自分は南海鉄道で一生働くつもりであるとしてこれを断ったとされます。南海鉄道にとどまった市来崎は、1922(大正11)年に取締役、1924(大正13)年に取締役兼技師長(技術部長)となったほか、電気学会関西支部長、中央電気倶楽部理事長など電気関係の諸団体の要職を歴任しました。1926(大正15)年7月に体調不良をおして堺発電所の起工式に出席しましたが、同年8月20日に逝去しました。甲武鉄道や南海鉄道で実現した蒸気鉄道の電化は、やがて全国へ波及して、都市鉄道の近代化に大きく貢献しました。(小野田滋)


”小石川橋通架道橋(中央本線水道橋~飯田橋/東京都千代田区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

甲武鉄道の電車って、パッと見、路面電車とあまり変わらないように見えますけど、どこがスゴいんですか?

師匠

明治時代の鉄道の動力は蒸気機関車が基本だったが、甲武鉄道は都市鉄道として電車が普及するきっかけとなった私設鉄道だ。

小鉄

日本で初めて実用化された電気鉄道は、ドボ鉄第115回第155回で紹介した、1895(明治28)年の京都電気鉄道が最初ですね。

師匠

京都電気鉄道は最初から路面電車として開業した例だが、東京のように馬車鉄道を電化して路面電車を走らせた例もある。

小鉄

東京馬車鉄道を電化した東京電車鉄道ですね。

師匠

しかし、蒸気機関車が走っていた路線を電化して電車を走らせたのは、甲武鉄道が最初の例になる。

小鉄

たしかに、そうですね。

師匠

今は全国で電車が走っているが、ほとんどの路線は蒸気機関車が走っていた路線をのちに電化して現在の姿になった。

小鉄

でも、この写真の甲武鉄道の電車は、1両だけで走ってるから、どう見ても路面電車みたいですよ。

師匠

甲武鉄道では3~4両編成の電車を考えていたが、当時は利用客も少なかったから1両だけで運転していたことが多かったようだ。

小鉄

それに、電車も短いから、やっぱり路面電車みたいですよ。

師匠

当時の路面電車のように2軸のみの短い電車だったが、このあとボギー式という台車を車体の前後に取り付けた大形車も登場した。

小鉄

今の電車に近い形ですね。

師匠

甲武鉄道から南海鉄道へ移籍した電気技術者の市来崎佐一郎は、南海鉄道の電化でボギー電車を実現し、さらに総括制御によって電車を編成単位で制御できる技術を確立した。それがこの「電2形」という電車だ。

小鉄

人類の進化を見ているみたいですね。

師匠

写真に写っている橋梁もドイツ製だが、トラス橋もこのあと国産化されるから車両も土木構造物もさらに進化することになる。

小鉄

そう考えると、この1枚の写真に技術の変化が記録されていることになりますね。

師匠

写真を単に「見る」のではなく、「読む」ことが大切だ。

小鉄

ボーっと見ているだけじゃダメなんですね。

師匠

チコちゃんに叱らるぞ。

諸元概要古写真
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