鉄道の路線調査などに空中写真を適用することは、昭和戦前期に南満洲鉄道で試みられていた。1932(昭和7)年に現地を視察した鉄道省熱海建設事務所長の平山復二郎(1888~1962)は、帰国後に陸軍陸地測量部の協力を得て、下田線(現在の伊東線の延長線)で空中写真測量を実施した。これが、わが国における鉄道路線調査に適用された最初の空中写真測量で、その後、陸地測量部の指導を受けながら桑原弥寿雄(1908~1969)、河野康雄(1909~1991)らによって、豊橋線(のちの二俣線)、山田線、只見線などで空中写真測量が実施された。
鉄道省では、1935(昭和10)年に建設局が管轄する東京第二工事事務所(のちの国鉄東京第二工事局とは別組織)に直轄の写真測量係を設置し、操縦士、撮影士、機関士などを採用して、埼玉県の熊谷にあった陸軍飛行学校の飛行場内に格納庫を設け、事務室、官舎を新設した。そして、1936(昭和11)年には、1号機として三菱鳩型(登録記号「J-AARA」)を導入し、白新線の路線調査が実施された。
絵葉書に示す機体は、キャプションに「鉄道省五號機」と書かれるが、登録記号「J-AARE」として1941(昭和16)年に立川飛行機で製造された立川式TS6型(98式直接共同偵察機を改造)である。鉄道省の空中写真測量は、弾丸列車のルート選定や、災害調査などにも使用され、もともと軍事技術として発達した空中写真が民生分野でも活用されるさきがけとなった。
鉄道省における空中写真測量は、戦時体制下における燃料統制と、操縦士、撮影士の応召によって1943(昭和18)年には中止を余儀なくされたが、その伝統は戦後も継承され、鉄道の路線調査や災害調査など広範囲に役立てられている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2011年10月号掲載)
Q&A
空中写真測量を詳しく教えてください。
航空機の胴体の下に航空写真撮影用のカメラを取り付けて、垂直方向に地表面の写真を連続して撮影します。写真が少しずつ重なるように連続して撮影するのがポイントで、視差差と呼ばれる「ずれ」を利用して写真を立体視することができ、距離だけではなく地盤の高低差などを定量的に計測することができます。それまでの測量は、地表を歩きながら行なっていましたが、空中写真測量は広い範囲を一度に測量できる方法として発達しました。(小野田滋)
”鉄道省5号機”番外編
師匠、誤植発見です!
どれどれ。
絵葉書の機体の横には「鉄道省6号」ってはっきり写ってますが、キャプションは「鉄道省五號機」と書いてありますよ。
ああ、これは4号機が欠番になっているんだ。
どういうことですか?
「4」は「し(死)」とも読めるから、縁起が悪い数字として故意に欠番としたんだ。
確かにキャプションの「登録記號」には「AARE」って書いてあるから、蒸気機関車の動輪と同じで、たぶん「E」は5番目を表すアルファベットですよね。
その通りだ。お前さんも上達したな。登録記号の最初の「J」は国籍の日本、第1文字の「A」は官庁の所属、第2文字は「A~Z」の任意、第3文字の「R」は鉄道省で、第4文字の「E」は1号機から順番に「ABC……」と付けた。
よく見ると、4号機のJ-AARDの写真の機体には「5」という数字が書いてあるように見えますね。
よく気づいたな。つまり機体に書く番号は、「4」を飛ばしたという証拠だ。
ということは、絵葉書の写真の飛行機は、機体には「鉄道省6号」と書いてあるけど、本当は鉄道省の5号機ということなんですね。
記録では、鉄道省では合計6機の航空機を所有していたので、写真は本当の6号機かもしれんが、肝心の登録記号が翼に隠れていて確認できんな。
ってことは「J-AARF」という機体もあったんですか?
ああ、本当の6号機だったら、第4文字は「F」ということになるな。本当の6号機も5号機と同型機で立川式TS6型だったから、写真が入れ替わっている可能性も無いわけではない。
飛行機の世界も奥が深いですね。
鉄道車両の形式番号は会社ごとに決めているが、飛行機の登録記号(機体番号)は国際ルールで決まっている。
今度、飛行機に乗る時に、確認してみます。
お前さんは「ドボ鉄」専属だから、深入りは禁物だぞ。