大阪市内を21.7kmで一周する大阪環状線は、すでに昭和戦前期に開業していた西成線(大阪~西九条間)、城東線(天王寺~京橋~大阪間)、関西本線(今宮~天王寺間)と、大阪臨港線と呼ばれた貨物支線(今宮~大阪港間)の一部区間を母体として、西九条~大正間を新たに建設し、1961(昭和36)年4月25日に全通した(環状運転は西九条駅が高架化される1964(昭和39)年3月22日より開始)。
このうち、西九条~弁天町間に流れる安治川は、下流域に位置するため潮汐による干満差の影響を受けやすく、船舶の航行も頻繁なため、1径間の橋梁で跨ぐことが要求された。大阪環状線は、80mの川幅を斜角45度で横断することとなったため、実際の支間は120m以上を必要とし、ここに当時としてはわが国で最大支間(120.0m)の鉄道橋が建設された。設計にあたっては、ランガー橋、ローゼ橋、タイドアーチ橋、分格ワーレントラス橋、Kトラス橋などの案が比較検討されたが、外観が優美で、重心が低く安定感のあるランガー橋が選ばれた。
安治川橋梁の架設は、船舶の往来を考慮して、足場を必要としないケーブルエレクション工法によって行われ、国鉄構造物設計事務所が上部構造の設計・製作指導を、国鉄大阪鉄道機器監督官事務所が製作監督を、国鉄大阪工事局が施工監理を、間組が下部工の施工を、汽車製造会社が上部工の製作・架設をそれぞれ担当し、1960(昭和35)年11月に架設を完了した。
国鉄関西支社が大阪環状線開通記念として発行した絵葉書には、すでに架設を完了して最後の仕上げを急ぐ安治川橋梁の姿が収められたが、海に近いためその塗装工事にあたっては曝露試験などの結果に基づき、特に入念に行われたと伝えられる(絵葉書の写真は下塗りの錆止め塗装の段階なので朱色をしている)。また、大規模橋梁の保守点検を容易にするため、当初からゴンドラ式の移動式点検足場が設置された。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2008年9月号掲載)
Q&A
ランガー橋はどのような特徴がある橋ですか?
ランガー橋は一般にアーチ橋の一種として区分されますが、桁橋とアーチ橋の中間的な橋梁形式で、オーストリアの技術者のヨゼフ・ランガー(Josef Langer)によって考案されました。下路橋の場合は、アーチを上弦材として用い、桁(またはトラス)を下弦材として用います。下弦材に相当する部分を補剛桁(ほごうげた/トラスの場合は「補剛構」または「補剛トラス」)と称します。補剛桁は吊材(ハンガー)によってアーチに支えられ、荷重の負担は「補剛桁>アーチ」(補剛桁が主体でアーチは補助的な部材)となるため重心が低くなり、ローゼ橋(補剛桁≒アーチ)やタイドアーチ橋(繋材(タイ/補剛桁部分に相当する部材)<アーチ)に比べて安定感のあるスマートな外観となります。(小野田滋)
”大阪環状線・安治川橋梁”番外編
こんな大きな橋を、どうやって架けたんですか?
ケーブルエレクションという施工法だ。
ケーブルをどう使うと、橋が架かるんですか?
京都鉄道博物館に、工事の時の模型が展示してあるから、これを見るとわかりやすい。
吊り橋みたいですね。
吊り橋のように見えるが、ケーブルを渡してあるだけで橋ではない。安治川橋梁を架けるための仮の設備だ。
橋はどこで作るんですか?
橋の部材は、工場で製作する。安治川橋梁は安治川河口の此花区島屋町にあった汽車製造大阪工場で製作された。工場で製作されるのは、トラックや貨車、船舶で容易に輸送できる10トンくらいの小さな部材だ。
「部材」って、プラモデルのパーツみたいな物ですかね。
まあそれに近いな。部材をケーブルで吊って、現場で組み立てて、大きな橋が完成する。橋が完成したら、ケーブルと塔は撤去してしまう。
だったら最初から吊橋を架けておけば、一度で済むんじゃないですか?
ところが、吊橋はたわみ易いから、線路が変形してしまって鉄道が安全に通れない。
たしかに。鉄道の橋で吊橋を見たことありませんね。
全く例がないわけではない。本四連絡橋の瀬戸大橋で使われている。
橋がたわんでも、鉄道が通れるんですか?
瀬戸大橋では、レールに特殊な伸縮継目を採用して、この難問を解決した。
安治川橋梁も、その技術を使えば吊橋になってたかもしれませんね。
安治川橋梁の頃は、まだ技術的に難しかったから吊橋の計画は無かったが、旋回橋にしようとするアイデアはあった。
それができていれば、すごいですね。
ただ、旋回作業に時間がかかるし、船を通す間は鉄道が通れないので、ボツになった。
橋をひとつ架けるだけでも、いろいろと考えるんですね。
鉄道構造物を見る時は、どんな考え方でその形になったのかを推理することが大切だ。
まるで探偵小説ですね。
頑張りたまえ、ワトソン君。