谷崎潤一郎の『旅のいろいろ』という随筆では、関西本線の汽車に乗って大和路へ行くことが桃の花の咲く頃の楽しみとして紹介されるが、そこに「先年地辷り(じすべり)のあった何とか云う村のトンネルを通り、柏原、王寺、法隆寺、大和小泉、郡山等の小駅を経て奈良へ行く汽車に乗ってみ給え。」という一文が登場する。この「先年地辷りのあった」とあるのは、1931(昭和6)年末に発生した亀の瀬地すべりのことで、王寺~柏原間の大和川右岸が、同年11月に滑動を開始したため、ここに位置していた関西本線の亀ノ瀬トンネルが変形し、翌年1月に下り線が、同年2月には上り線が相次いで不通となり、徒歩連絡となった。
鉄道省では、線路を対岸の大和川左岸に移して早期復旧をめざすこととなり、1932(昭和7)年7月に起工して、単線断面並列の第1明神山トンネル(上り線:延長302.0m/下り線:延長355.2m)と、複線断面の第2明神山トンネル(延長100.0m)、第3明神山トンネル(延長78.2m)の3カ所のトンネルを掘削して同年12月に単線で開通し、1935(昭和10)年12月には第2線(現在の下り線)も開通して復旧した。「今や崩壊の危機に瀕せる関西本線亀ノ瀬トンネル東口」と題した絵葉書には、すでに線路も撤去され、東口の坑門が圧壊している様子がおさめられており、地すべりによる破壊力のすさまじさを今に伝えている。
亀の瀬地すべりは、内務省の直轄工事としてただちに対策工事が行われ、発生から90年以上の歳月を経た現在も、国土交通省大和川河川事務所亀の瀬出張所によって事業が継続されている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2011年6月号掲載)
※旧鉄道省や旧内務省では主として「亀ノ瀬」を用いていましたが、現在の国土交通省では「亀の瀬」と表記します。
Q&A
何で、第4大和川橋梁は、トラス橋で川を跨いで、その上にプレートガーダを架けたんですか?
トラスよりも短いプレートガーダを、河川の流心に橋脚を立てずに一気に跨ぐために、トラスで受ける構造としました。架橋地点は河床からの高さも高く、河川を斜めに跨いでいるので、トラスを馬脚(うまあし)として利用しました。第4大和川橋梁では、奈良方から第1号馬脚、第2号馬脚、第3号馬脚の3基あり、国道25号線を跨ぐ第1号馬脚に支間14m、右岸側の第3号馬脚に支間15mの上路プレートガーダを馬桁として架けましたが、大和川を跨ぐ第2号馬脚は馬桁に支間30mのワーレントラスを用いました。橋桁などを上に載せて支えるための橋脚のことを一般に「馬脚」と呼び、その上に載せる桁を「馬桁」(または単に「馬」)と呼んでいます。ちなみに、第4大和川橋梁の馬桁として使用したトラスは、鉄道省門司鉄道局で橋梁として使用する予定だったトラスを、災害復旧のために急遽改造・転用したものといわれています。(小野田滋)
”亀ノ瀬トンネル(大阪府)”番外編
復旧工事では、どうして第1明神山トンネルだけ単線断面並列で、ほかの2カ所のトンネルは複線断面だったんですか?
単線断面トンネルは、掘削断面積が小さくなるから、掘削断面積の大きい複線断面トンネルよりも早く掘ることができる。
つまり、できるだけ早くトンネルを完成させて、単線だけでも開通させることを優先したってことですね。
その通りだ。第1明神山トンネルは、延長が300m以上もあって長かったから、片側のトンネルだけでも早く完成させて、早期復旧をめざした。
ほかの2トンネルも単線断面で掘れば、もっと早く復旧できたんじゃないですか?
ほかの2トンネルは延長100m以下で短いから、早く完成したとしても第1明神山トンネルの完成を待たなければ開通できない。
なるほど。それで一番長い第1明神山トンネルだけ単線断面で掘ったんですね。
作業を最短時間で終えるためにどうするのかは、土木工事の工程管理の基本だ。だが、急ぐあまり工事費が高くなってしまっては元も子もないから、経費と工期のバランス、そして何よりも「安全第一」を考えながら工事を完成させるのが土木技術者の腕の見せ所だ。
何でも早ければ良いってことでもないんですね。
早く着くけど高い新幹線で行くか、時間はかかるけど安い在来線で行くかということと同じだな。
僕は高い料金でちょっとしか乗れない新幹線より、安い料金で長い時間を列車の中で過ごせるから、在来線を選びます。