日本の鉄道用トラス橋の歴史は、イギリス製に始まって、明治時代中庸にはアメリカ製、ドイツ製へと移行し、明治時代末~大正時代に国産化が達成された。日本の橋梁技術の原点となったイギリス製の橋梁によって、橋梁の設計・施工に関する基本的な知識や技術がもたらされたが、より合理的な設計のアメリカや、特殊な設計のドイツの設計技術を取り入れ、結果的にこれらを基にして国産化へとつなげたことになる。
イギリス製トラス橋の大尾を飾ったのが、イギリスのダービーにあった鉄工所のアンドリュー・ハンディサイド社(Andrew Handyside and Company)で製造された支間長200フィート(約61m)クラスのプラットトラス橋で、リベット接合やコッターピンを用い、従来のイギリス製トラス橋とは異なるスリムで大柄なトラス橋として完成した。このうち単線用は常磐線の阿武隈川橋梁に8連、信越本線の信濃川橋梁に6連(ドボ鉄第84回参照)が架設されたが、複線用は今回紹介する常磐線の隅田川橋梁に架設された2連のみであった。
常磐線の隅田川橋梁は、1896(明治29)年に日本鉄道土浦線(現在の常磐線の一部)の、南千住~北千住間の荒川に架かる橋梁として完成した。「東都名勝・荒川の鉄橋」と題した絵葉書には、背が高くスリムなスタイルのハンディサイド社製トラス橋の特徴的な姿がおさめられた。
初代の隅田川橋梁は、1927(昭和2)年に架け替えられ、新鶴見操車場(横浜市/川崎市)を跨ぐ江ヶ崎跨線道路橋へと転用されたのち、再開発に伴って撤去されることとなった。江ヶ崎跨線道路橋は「かながわの橋100選」にも選ばれ、歴史的価値も高い橋であるため、2013(平成25)年に2連分の部材を組み合わせて短縮改造を行ったのち、横浜市中区で新山下運河を跨ぐ霞橋(道路橋)に再利用されて余生を送っている。ちなみに、霞橋は2014(平成26)年に土木学会田中賞(作品賞)を受賞したが、歴代の受賞作品で最も短い支間(31.4m)であった。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2021年12月号掲載)
Q&A
コッターピンは、何のことですか?
コッターピン(cotter pin)は楔(くさび)のようなテーパーのついた部材を溝や穴に食い込ませて接合する方法で、日本語で楔子(けっし)、鼻栓などとも呼ばれます。主として機械部品の接合で用いられますが、橋梁など土木構造物でも稀に使用されます。日本では特にハンディサイド社製のトラス橋で用いられました。(小野田滋)
”常磐線・隅田川橋梁(東京都足立区/荒川区)”番外編
師匠、また誤植発見ですよ。
今度は何だ。
隅田川橋梁の絵葉書なのに、キャプションが「荒川の鉄橋」ってなってますよ。
ああ、昔は今の隅田川が荒川の本流だったからだ。
どういうことですか?
今の荒川は、大正時代に建設された荒川放水路を流れているが、その前は隅田川を流れていた。
荒川放水路は、何のために建設されたんですか?
荒川の流域では江戸時代からたびたび水害が発生していて、特に1910(明治43)年の大水害では東京の下町一帯が冠水してしまった。
それで放水路を建設することになったんですね。
ただちに内務大臣を会長とする臨時治水調査会が設置されて、内務省土木局の沖野忠雄と原田貞介によって計画が立案された。
土木学会のホームページを見たら、二人とも土木学会会長ですよ。
荒川放水路開削工事を指揮したのも大物で、内務省の青山士(あきら)と宮本武之輔が担当した。
青山さんも土木学会会長ですね。
荒川放水路の工事は、1913(大正2)年に掘削工事を開始して、1924(大正13)年に通水式を行なって、1930(昭和5)年に第1期改修工事が完成した。
関東大震災は大丈夫だったんですか?
堤防の陥没や亀裂が発生したが、放水路の広大な河川敷は周辺住民の避難場所として役立てられた。
通水式が震災の翌年だから、河川敷もほぼ完成していたんですね。
その後も隅田川が荒川の本流だったが、1965(昭和40)年に荒川放水路を荒川の本流として、岩淵水門より下流は隅田川を正式名とした。
ということは、その時から隅田川って呼ぶようになったんですか?
お前さんはもう忘れたのか。少し前のドボ鉄で相模川の下流は馬入川と呼んでいたと説明したが、河川は上流と下流で名前が異なることがある。
思い出しました。第112回のQ&Aに解説がありますね。
隅田川は荒川下流の古名で、江戸時代は大川とも呼ばれていた。
川の名前はややこしいですね。
鉄道橋梁の名称は、古い河川名をそのまま使っている場合が多いから、橋の名前を深掘りするとその地域の歴史が見えてくるぞ。