ドボ鉄123現存最古の鉄道建築

絵はがき:北陸本線・長浜旧駅(滋賀県長浜市)


 長浜駅は、米原で東海道本線と分岐する北陸本線の駅で、1882(明治15)年に完成した日本に現存する最古の鉄道駅本屋が保存されている。長浜駅を含む北陸本線の長浜~敦賀間は、東海道本線よりも先に開業した区間で、のちに東海道本線が関ヶ原を越えて名古屋方面と接続した際にも長浜駅が起点であった。琵琶湖は、すでに舟運が発達していたので、大津~長浜間は太湖汽船という連絡船で、大津から鉄道で京都、大阪方面に接続していた。
 開業時の長浜駅本屋(長浜旧駅)は、桁行23.9m×梁間9.19m(いずれも芯芯寸法)×軒高8.7mのコンクリート造(無筋)2階建の建物として完成し、1階に駅長室、事務室、三等待合室、二等待合室、出札室、休憩室を備え、2階を建築課、汽車課などの業務用に利用した。
 長浜旧駅で用いられたコンクリートは、いわゆる石灰コンクリートと呼ばれる材料で、すでに東京の深川には官営のセメント製造所が操業を開始していたが、高価であったことなどから全国的な普及には至らず、代用材として生石灰や火山灰を混ぜてコンクリートとして使用していた。同時代の建築ではいくつかの使用例が報告されているが、すでにセメントの製造を開始していた東京よりも、東京から離れていた関西地方で用いられる傾向があったとされる。
 長浜旧駅は、本屋の移転後も業務施設や国鉄の物資部(国鉄共催組合が運営する売店)などに利用されていたが、現存最古の鉄道駅としての価値が認められ、1958(昭和33)年に鉄道記念物に指定された。指定後に詳細な調査が行われ、外壁に亀裂があり、屋根も破損や腐食が認められるなど荒廃していたため、修繕工事が実施された。補強工事にあたっては、外壁に控え壁を設けて支える案も検討されたが、鋼材を四周に巻いてターンバックルで内側から締め付け、できる限り外観を損ねないように工夫された。また、外壁や屋根の補修、室内の修繕、間仕切等の復原が行われ、1962(昭和37)年に完成して室内は鉄道記念館(長浜スクエア)として展示室に利用された。
長浜旧駅のスタイルは、一見、日本の伝統的な土蔵を思わせるが、窓周りに使用された赤煉瓦や、角部に用いられた隅石の技法、屋根を支える木骨トラスの小屋組など、明らかに西洋建築の技術に基づいて建てられている。(小野田滋)(書き下ろし)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

長浜旧駅の設計者は、誰ですか?

A

 イギリス人技師とする説が有力ですが、まだ特定されていません。施工は神戸の稲葉弥助とされています。ちなみに、大阪学芸大学(現在の大阪教育大学)の近藤豊助教授(当時)は、「明治初年の国鉄関係の建築」(『汎交通』Vol.59,No.5・1959)と題した論考の中で、「現段階ではこの駅舎は英国人の指導(原寸図も引いたであろう、手摺なども当時の日本人ではあの原寸は未だ描けなかったかもしれない。)により日本人が精一杯の洋風建築に建てたものと考えられる。耐火煉瓦や暖炉などは輸入品、しかし大量を要する、しかも日本品で不都合の起らない屋根瓦などは日本品、壁は洋風に大壁に見せても構造や手法は在来の方法による。……というところではなかろうか。」と評価しました。西洋建築の技術に基づいて建てられた近代建築の残存例として貴重で、西洋技術を国産化する過程を示す技術遺産としても重要な存在です。(小野田滋)


”北陸本線・長浜旧駅(滋賀県長浜市)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

師匠、長浜旧駅の建物ですが、線路と直角方向に建ってますけど、これだと行き止まりの駅になってしまいますよ。

師匠

開業した時は、敦賀方面へ行く路線だけだったから、大津方面へ伸ばすことは考えていなかった。

小鉄

どういうことですか?

師匠

関東と関西を結ぶ幹線鉄道を建設することになったんだが、東海道を経由すべきか、中山道を経由すべきか、結論が定まらなかった。

小鉄

東海道に決まってるじゃないですか。新幹線も高速道路も東海道が最初ですよ。

師匠

現在の価値観ではそうなるが、明治時代は交通の不便な内陸の鉄道を先に整備すべきという意見が強かった。東海道はすでに水運も発達していたから、後回しにされた。

小鉄

どうなったんですか?

師匠

中山道と東海道を比較した末に中山道に鉄道を敷設することが決定して、工事が開始された。

小鉄

でも中山道は山岳地だから、鉄道を通すのは大変ですよ。

師匠

中山道の鉄道へ工事資材を運搬する路線として、長浜~敦賀間の鉄道が先行して建設された。

小鉄

後戻りできないですね。

師匠

ところが、お前さんが言うように、中山道の工事が困難だとわかってきたので、1886(明治19)年に方針を大転換して、東海道の鉄道を優先することとなった。

小鉄

僕が言った通りでしょ。

師匠

お前さんは、答えが解っているからそう言えるが、当時はまだ国土全体を把握できる精密な地形図も整備されていなかったから、実現できるかどうかは誰も予測できなかった。

小鉄

確かに、地形図がないと高低差とかわからないですよね。

師匠

長浜~敦賀間の鉄道は、琵琶湖の舟運と連携すれば、日本海側と太平洋側を結ぶ輸送ルートとしても有望だった。

小鉄

ってことは、長浜に港があったんですか?

師匠

長浜旧駅の西側に旧長浜城の内濠を利用して長浜港を設けて、大津まで太湖汽船が連絡していた。

小鉄

それがこの「旧長浜港跡」という石碑ですね。

師匠

長浜旧駅の向かい側に建っている。

師匠

それから間もなく、1889(明治22)年に長浜から米原を経て大津までを結ぶ湖東線が開通して、東海道本線の新橋~神戸間が全通した。

小鉄

湖西線はありますけど、湖東線って何ですか?

師匠

長浜~大津間を建設する時の路線名で、東海道線と呼ばず湖東線と称していた。

小鉄

湖東線の開業で、太湖汽船はどうなったんですか?

師匠

2隻あった蒸気船は、大津で解体されたのち大阪で再組立てして、瀬戸内海航路に転用された。あと、補償金が下付された。

小鉄

うまく店じまいができて、よかったですね。

師匠

鉄道連絡船としての役割はいったん終了したが、遊覧船事業として存続して、紆余曲折を経て現在の琵琶湖汽船の源流になった。

小鉄

ミシガンクルーズで有名ですよね。

師匠

長浜港からも、竹生島へ往復する竹生島クルーズが発着しているぞ。

小鉄

琵琶湖周航歌の世界ですね。今日は今津か、長浜か~♪

師匠

琵琶湖周航歌を知ってるってことは、さては昭和の生まれだな。

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