ドボ鉄130鉄骨上屋の実現

絵はがき:鹿児島本線・旧博多駅(福岡市博多区)


 黎明期における停車場の乗降場(プラットホーム)屋根を支える小屋組は、木材をトラスで組んだ木骨トラス造であったが、明治時代末~大正時代になると鉄材料が普及し、木骨トラスでは難しかった大空間を実現した。
 1889(明治22)年、九州鉄道によって開業した博多駅は、路線網の拡大とともに手狭となり、日露戦争後にその改築計画が具体化した。二代目博多駅の建設は、1906(明治39)年に開始され、翌年の九州鉄道国有化を経て1909(明治42)年に完成した。
 「博多停車場プラットホーム」と題した絵葉書は、駅本屋に隣接して設けられた第1乗降場を鹿児島方から撮影した1枚で、鋳鉄柱が整然と並んで小屋組の鉄骨トラスを支え、大空間を確保していることが理解できる。鋳鉄柱は片側22本が用いられ、その門司方に跨線橋の階段を設けた。鋳鉄柱を用いて鉄骨トラスの小屋組を支えて大空間を確保する手法は、すでに工場建築などで用いられていたが、博多駅の乗降場では左右両側の鉄骨をカンチレバー式で大きく張出して軒を構成し、列車の乗降に支障しないよう工夫されている。
 二代目博多駅は、1963(昭和38)年に約600m東側に離れた現在の地に移転したため乗降場も解体され、鋳鉄柱の一部が近隣の住吉神社(博多区住吉三丁目)で保管された。その後、2011(平成23)年に完成したJR博多シティの建設にともなって、その屋上に「つばめの杜(もり)ひろば」が設けられ、モニュメントとして再利用された。「ひろば」には、「九州鉄道建設之恩人ヘルマン・ルムシュッテル」の顕彰碑もある。なお、鉄骨造の小屋組を用いた乗降場は、1914(大正3)年に完成した東京駅や京都駅(二代目)でも使用されたが、博多駅ではそれよりもやや早く用いたことになる。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2022年7月号掲載)

 

この物件へいく


Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

ルムシュッテルはどんな人ですか

A

ヘルマン・ルムシュッテル(Hermann Rumschöttel/1844~1918)は、お雇い外国人として来日したドイツの鉄道技術者です。ベルリン工科大学を卒業してプロイセン国鉄に在籍しましたが、1887(明治20)年に来日して九州鉄道技師長として九州の鉄道建設を指導し、1892(明治25)年には九州鉄道を辞して東京の駐日ドイツ公使館付の技術顧問となりました。東京では、日本鉄道の高架線計画などに携わり、ベルリンの煉瓦アーチ式高架橋の採用を提案しました。このほか、讃岐鉄道や住友別子鉱山鉄道などにも関与しました。1894(明治27)年に帰国して、機械製造会社の社長や鉄道局の顧問となりました。ルムシュッテルの来日によって、ドイツ流の鉄道技術がもたらされ、特にレール、橋梁、蒸気機関車がドイツから輸入されるようになりました。博多駅にあるレリーフは、鉄道友の会と国鉄門司鉄道管理局によって国鉄88周年記念事業として、1960(昭和35)年に制作されました。元々は博多駅のコンコースにありましたが、2011(平成23)年のJR博多シティ開業時に、その屋上にある「つばめの杜ひろば」の鉄道神社横に移設されました。(小野田滋)


”鹿児島本線・旧博多駅(福岡市博多区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

博多駅は第49回のドボ鉄でもとりあげたから、久々の登場ですね。

師匠

前回は、駅の移転がテーマだったが、今回は移転前の駅の紹介だ。

小鉄

国有化後の1909(明治42)年に完成したんですね。

師匠

よく知ってるな。九州鉄道は1907(明治40)年に国有化された。

小鉄

博多駅の設計者はわかっているんですか?

師匠

九州鉄道工務課にいた建築技師の松室重光とされているが、松室は1905(明治38)年に京都府技師から九州鉄道に入社して、1908(明治41)年には関東都督府へ移るから微妙なタイミングだ。

小鉄

国の重要文化財になっている門司港駅も同じ頃ですよね。

師匠

現在の門司港駅は1914(大正3)年に完成したが、こちらの設計者も不明だ。

小鉄

松室さんですかね?

師匠

関与していたかもしれないが、確証はない。

小鉄

九州だからドイツ人かもしれないですよ。

師匠

一時はドイツ人が設計したとも言われていたが、どうもルムシュッテルや八幡製鐵所に招かれていたドイツ人技師と混同されているようだ。

小鉄

そう言えば、門司港駅と博多駅は、なんとなく似ているようにも見えますね。

師匠

中央に大広間を設けるスタイルは、駅建築の基本だったから、どうしても似たような姿になるな。

小鉄

でも博多駅の平面図をよく見ると、一二等待合室が駅長室の近くにありますよ。

師匠

当時は、待合室は乗車する車両によって分けられていたから、博多駅では三等と完全に分けようと考えたのかもしれないな。

小鉄

あと、「婦人室」もありますよ。

師匠

今は女性専用車というのがあるが、この頃は婦人専用の待合室があった。

小鉄

それに、出札室が広間の真ん中にあって、集札場が駅の端にありますよ。

師匠

この時代の大規模な駅は、切符を購入して改札をくぐる乗車口と、切符を回収して改札の外へ出る降車口を完全に分けていることが多かった。

小鉄

細かく見ると、駅構内の様子が今とだいぶ違っていることがわかりますね。

師匠

「小荷物取扱」とか「手荷物渡シ場」などという場所も、今の駅には無いな。

小鉄

駅の内部の使い方を調べると、その頃の習慣や鉄道営業の考え方がわかるってことですね。

師匠

初めの頃の駅は、そのあたりの考え方がまとまっていなかったが、大熊喜邦という建築家が1905(明治38)年の『建築雑誌』に「停車場に於ける重要三室の配置並に待合室に就て」という論文を発表しているから、この頃から駅構内の配置が大きな課題になっていたようだ。

小鉄

駅も建物の外観だけでは無くて、その使い方が時代によって変化するんですね。

師匠

駅の内部をどう使っていたかということはあまり調べられていないから、調べる価値はあるぞ。

小鉄

師匠からの宿題がまた増えちゃって、もう満腹ですよ。

師匠

一度に解決しようとせず、「小さいことからコツコツと」が大切だ。

小鉄

それって、西川きよし師匠の決めゼリフですよね。

師匠

同じ「師匠」の格言だ💢

歴史論文
Back To Top