岡山を起点として宇野までを結ぶ延長約32.8kmの宇野線は、四国へ渡るための本四連絡鉄道として建設され、宇野港で宇高連絡船を乗り継いで高松港へと渡っていた。
この宇野線が開業するまで、岡山方面から四国へ至る交通路は、岡山から小型船で旭川を下り、河口にある三蟠(さんばん)港で大型船に乗換えて児島半島を迂回して高松へ至っていた。このため、より四国に近い宇野に鉄道を接続させて高松へ航路で渡る新ルートが要望され、鉄道敷設法の第一期予定線として帝国鉄道庁岡山建設事務所により1907(明治40)年に工事が開始された。
まだ児島湾の干拓事業が進んでいなかったこともあって、湾の西側を大きく迂回するルートが採用され、地形は比較的平坦であったが、宇野に近い八浜~備前田井間に唯一のトンネルとして、延長2155フィート(656.8m)の児島トンネルが建設された。児島湾沿いには軟弱地盤が続いたが、児島トンネルは堅硬な地質であったため、掘削に困難を伴ったと伝えられる。
岡山県による宇野港築港事業も宇野線の建設とほぼ同時に行われ、宇野線と宇高連絡船は1910(明治43)年6月12日に開業した。「宇野線開通記念」の押印がある記念絵葉書には、児島トンネルと宇高連絡船の写真が添えられ、背景には別名「烏城(うじょう)」と呼ばれた岡山城と後楽園の花菖蒲が描かれた。
宇野線のうち岡山~茶屋町間は本四備讃線が開業したのちも本四連絡鉄道として機能し続けているが、茶屋町~宇野間は地域の足として利用され、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2017年11月号掲載)
Q&A
地図を見ると宇野線の路線は、ずいぶん児島半島の西側を迂回していますが、なぜ岡山と宇野の最短距離じゃないんですか?
本文にもありますが、児島湾の干拓事業と関係があります。児島半島はもとも吉備児島と呼ばれる島でしたが、奈良時代から小規模な干拓が始まって、江戸時代の初期には本州と陸続きとなって児島半島になりました。明治維新以降の士族授産(幕藩体制の崩壊で失業した武士に生産活動を奨励した)の中で干拓事業が本格化して、宇野線が開通した明治末期頃にはちょうど宇野線のルートのあたりまで干拓が進みました。その後、大正時代~昭和時代と干拓事業が進んで現在の姿になりましたが、宇野線は開業時のままの位置なので、結果的に干拓が本格化する前の児島湾の範囲を示す目印となっています。(小野田滋)
”宇野線・児島トンネル(岡山県玉野市)”番外編
宇野線にある田井橋梁は、石積みでできていますが、児島トンネルは石積みと煉瓦積みなんですね。
田井橋梁は、石積みのように見えるが、実は初期のコンクリートアーチ橋だ。
ええっ⁉ 写真だと全部石積みですけど……。
これは、外観を整えるためにコンクリートの表面に石を貼っているだけだ。
コンクリート打ち放しのままじゃダメなんですか?
理由はいろいろ考えられるが、当時はコンクリートをそのまま見せることが躊躇されたようで、石材や煉瓦タイルを表面に貼ることが行われていた。
児島トンネルはコンクリートを使わなかったんですか?
明治時代末期から大正時代にかけては、土木や建築の材料が煉瓦や石材からコンクリートへと変化した時代にあたる。
それでコンクリート構造物と煉瓦構造物が混じってるんですね。
この時代に建設された鉄道路線の土木構造物を調べると、両方を使っていることがわかる。
東京にもありますか?
東京から神田を経て万世橋あたりに至る中央線の高架橋は1919(大正8)年に完成したが、内部は鉄筋コンクリートで表面に煉瓦タイルを貼っている。
外観を煉瓦積みで整えることにこだわったんですね。
当時の工事記録では、明治時代に完成していた東京~新橋間の煉瓦高架橋に合わせて外観を整えたとされる。
石材を貼った例もありますか?
東京と神田の間に架かっている中央線の外濠橋梁は鉄筋コンクリートアーチ橋だが、田井橋梁のように石材を表面に貼って仕上げている。
これから、材料の違いと土木の歴史の関係に注意して調べ直してみます。
土木構造物は見た目だけではなく、見えないところにも工夫があるから、現物だけではなく図面や工事記録にも丹念にあたる必要があるぞ。
また宿題が増えましたね。
そういえば、いろいろと宿題が溜まっていると思うが、少しは解決してるのか?
安心してください。見えないところで頑張ってますから。