わが国における可動橋の普及に貢献した山本卯太郎については、第46回の四日市臨港線・末広橋梁で紹介したが、今回は山本が設計した最大支間の可動橋である古川橋梁について紹介してみたい。古川橋梁は、東京の汐留から芝浦を結ぶ貨物専用の芝浦支線に架かっていた跳開橋で、山本卯太郎の率いる山本工務所の設計により1929(昭和4)年に完成した。
山本は、四日市臨港線に架かる末広橋梁(国指定重要文化財)でリンク機構を組み合わせた独自の可動メカニズムを用いたが、今回紹介する古川橋梁は一般的なトラニオン式と呼ばれる方式を採用した。トラニオンは、大砲の砲身を回転させて仰角を与えるための回転軸のことで、古川橋梁では片方(汐留方)の桁端にトラニオンを設けた。
「芝浦臨港線ハネアゲ橋」と題した絵葉書には、跳開状態の古川橋梁がおさめられ、左側にはバランスをとるための巨大なカウンターウェイトを確認できる。古川橋梁の可動部の支間長は27.6mあり、山本卯太郎の設計した可動橋では最大支間であった。芝浦支線は、1930(昭和5)年に開業して一時期は軍事物資の補給路としても用いられていたが、戦後は東京港や近隣の工場の貨物輸送に用いられたのち1985(昭和60)年に廃止された。
この絵葉書には「東京大十六橋」と記され、東京の16大橋梁をセットとして販売した絵葉書集の1枚であったが、鉄道橋として選ばれたのは芝浦臨港線ハネアゲ橋のみで、他はすべて道路橋(三吉橋、両国橋、千住大橋、厩橋、数寄屋橋、新大橋、日本橋、永代橋、江戸橋、清洲橋、相生橋、聖橋、蔵前橋、言問橋、駒形橋)であった。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2018年3月号掲載)
Q&A
ドボ鉄第46回の末広橋梁と見比べると、ロープが無くてスッキリしているように見えますが、何が違うのですか?
末広橋梁では、ロープ(吊索)とリンク装置を用いて桁を吊り上げるシステムを用い、桁の角度に応じて最小限の力で持ち上げる方法を採用しましたが、古川橋梁はロープが無く、従来のトラニオン形と呼ばれる方法で設計されました。トラニオン形は、桁とのバランスをとるために大規模なカウンターウェイト(重錘)を必要としましたが、山本の考案したシステムではカウンターウェイトを最小限に小型化することが可能でした。(小野田滋)
”東海道本線芝浦支線・古川橋梁(東京都港区)”番外編
師匠、山本卯太郎の発明は、ロープとリンクを組み合わせた吊り上げ方法に特徴があったということですか?
山本卯太郎はこの方式について1928(昭和3)年12月に発行された『土木学会誌』で「鋼索型跳上橋の一考察」と題して発表したんだが、これに異議を唱えた技術者が現れた。
どういうことですか?
翌年4月に発行された『土木学会誌』の「討議」欄で、関場茂樹という技術者が「1894年にアメリカのブラウン氏が設計したブルックリンの跳開橋は山本の考案と同形で、決して新しい考案とは思われない。」と批判したんだ。
関場茂樹ってどんな人なんですか?
山本と同様にアメリカの橋梁メーカーで修行を積んだ土木技術者だ。帰国後は、横河橋梁製作所の技師長に就任したが、のちに関場設計事務所を開設して独立した。
あっ、想い出しました。ドボ鉄第35回の「宇治川を跨ぐ大トラス」で紹介された澱川橋梁を設計した人ですね。
よく覚えていたな。関場は、アメリカの橋梁技術に精通していたから、山本の論文を一読して、その元となるアイデアがすでにアメリカに存在していたことを指摘したのが「討議」の趣旨だった。
山本は反論しなかったんですか?
反論はされなかったため討議は発展しなかったが、山本は自分の理論が理解されなかったことに失望したと伝えられている。
山本のアイデアはブラウン氏の考案を流用しただけってことですか?
山本の論文の本質は、ブラウン氏の跳開橋を基本原理として、これに力学的根拠を与えて最も効率よく跳開作業を行なうことができる最適解を求めた点にあった。
仕組みそのものではなく、理論化したところに独自性があったってことですね。
関場の評価がその点に及ばなかったことに山本の不満があったように思うが、関場は批判だけではなく「この種の跳上橋は滑車を支持する柱を十分強固にしなければならいので、さらに研究を深めるべきである。」と具体的なアドバイスをしているから、アメリカのメーカーで経験を積んで設計事務所を開設した先輩技術者として、「討議」を通じてエールを送ったと理解することもできる。
2人とも設計事務所を構えた土木技術者の草分けですか?
山本卯太郎が活躍した大正時代から昭和戦前期にかけて、樺島正義、増田淳、阿部美樹志などの技術者が独立して設計事務所を構えたが、皆アメリカの大学やメーカーで最新の土木技術を身につけて帰国したという点で共通している。
だったら日本でも引く手あまただったんじゃないですか?
ところが、内務省や鉄道省のインハウスの技術者で固められていた日本の土木業界では、独立した技術者は在野の技術者として特異な存在で、風当たりも強く、建築家のような高い評価を受けていなかった。
もったいないですね。
そうした中で、山本は可動橋の設計というそれまでの日本の土木技術者にとって未開拓であった分野に活路を見出し、独自の地位を築いたことになる。
つまりオンリーワンをめざしたってことですね。
「丸くなるな。星になれ。」ということだな。
それ、ビールのキャッチコピーですよ。