御茶ノ水駅と両国駅の間を高架線で結び、中央本線と総武本線の直通運転を行おうとする計画は、関東大震災後の震災復興計画の中で具体化され、東京市の区画整理事業とあわせて進められることとなった。高架橋本体の工事は1931(昭和6)年2月に失業救済事業として鉄道省によって開始され、総延長3.6kmを7工区に分割して行われた。
このうち、御茶ノ水~秋葉原間の万世橋工区は、延長わずか325mであったが、開脚式の鋼ラーメン橋脚を用いた神田川橋梁、ブレーストリブタイドアーチによる松住町架道橋、中央通りを跨ぐ御成街道架道橋など、特徴的な構造物がいくつか建設された。工事は鉄道省東京第二改良事務所の監督、大林組の施工により行われ、1932(昭和7)年5月に完成した。
「お茶の水両国間東洋一の大陸橋」と題した戦前の絵葉書には、御成街道架道橋を手前にして、高さ12.5mの旅篭町高架橋があたりを睥睨(へいげい)するかのごとく聳(そび)えている。旅篭町高架橋の後方には松住町架道橋が架かり、さらにその左側には駿河台のランドマークであったニコライ堂を遠望することができる。
戦災によって灰燼に帰した秋葉原であったが、戦後になって電器商が集まり、露店を広げるようになった。これらはほどなく、GHQの露店撤廃令によって高架下へ整理されたが、3階建のビルに相当する高架橋は、店舗として有効に活用された。今や AKIBAと呼ばれ、世界にその名を知られる秋葉原であるが、電気街へと発展するきっかけを作った高架橋は、時代の変化を見守りつつ今も健在である。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2008年2月号掲載)
Q&A
秋葉原の高架橋はずいぶん高い位置にありますが、なぜこんなに高いんですか?
東京駅と上野駅を結ぶ高架線が1925(大正14)年に完成していたので、1932(昭和7)年に完成した御茶ノ水~両国間の高架線はさらにその上を跨ぐことになりました。また、御茶ノ水駅は、台地から平地へ至る台地の「際(きわ)」に位置したため、地形的にも高い位置から低地の両国へ向かって高架線を建設することになりました。(小野田滋)
”総武本線・御茶ノ水~秋葉原間(東京都千代田区)”番外編
今月の絵葉書ですけど、ほんとに秋葉原ですか?
今から90年くらい前の絵葉書だ。この時代は高いビルがなかったから今と全く違う景色だった。
遠くに聳えている、大きな建物はニコライ堂ですね?
そうだ。かつて東京のランドマークとして、どの方向からもよく見えた。
今はビルが建っていて見えませんよね。
この絵葉書で今も変わらないのは、高架線とニコライ堂くらいだな。
前回とりあげた地下鉄の万世橋仮駅は。どこにあったんですか?
ここには写っていないが、御成街道架道橋の少し南側のあたりだ。
秋葉原なのに、ぜんぜん電気街じゃないですよ。
本文にもあるが、電気街として発展するのは、昭和時代の戦後になってからだ。
昔からあると思ってました。
いくつかの商店は昭和戦前期に創業していたが、しばらくはラジオ部品を扱う店が多かった。
部品を買って、自分でラジオを組み立てるってことですか?
5球スーパーとか高1ラジオとか……懐かしいな。
スーパー?高校1年?
何を言っておる。真空管ラジオの種類のことだ。
トランジスタより前の時代ですね。
電気製品が「家電」として大量生産されて普及するのは、昭和30年代になってからだ。
「テレビ、冷蔵庫、洗濯機」ですね。
三種の神器を知ってるってことは、さては昭和の生まれだな。