山手線の環状運転は、当初から意図していたわけではなく、いくつかの路線をつなぎ合わせているうちに、結果的に環状線が成立した。このため、線路名称としての山手線は、品川を起点として渋谷、新宿、池袋を経て田端が終点となり、品川駅1番線ホームの線路際に0キロポストが建植されている(ドボ鉄076回「ゴジラの初上陸」参照)。山手線の形成過程については他著に譲るが、1919(大正8)年に神田駅が開業したものの、当初は中央線のプラットホームのみであった。このため、環状運転を行うために最後まで残った区間が東京~上野間であった。
東京~上野間の高架線のうち、神田川付近~上野間は1923(大正12)年1月に着工したが、同年9月の関東大震災後によって工事が遅延したため、山手線の環状運転が開始されたのは1925(大正14)年11月1日のことであった。この時代になると鉄筋コンクリートの技術が進歩し、ラーメン構造の設計法も確立しつつあった。鉄筋コンクリートラーメン構造は耐震性に優れ、震災後における鉄道高架橋にふさわしい構造物として登場した。東京~上野間の高架橋は、鉄道省としては本格的なラーメン高架橋の最初の適用例となり、のち鉄道高架橋の造形の規範となった。また、一部の高架橋では高架下の利用を促すために、地下室を備えた。
「高架線側面」と題した絵葉書では、完成間近い秋葉原~御徒町間の高架橋がそびえ、彼方には高架駅として新設された御徒町駅と上野公園の森が見える。地上の線路は、上野~秋葉原間を結んでいた貨物線で、工事用とおぼしき側線が分岐している。
高架橋のうち、御徒町~上野間の高架下は、昭和時代の戦後期になるとアメ横が形成され、小売店がひしめく繁華街として連日にぎわっている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年5月号掲載)
Q&A
よく「ラーメン構造」という言葉が出てきますが、どんな構造ですか?
橋梁の構造の一種で、橋梁下部構造(橋脚や橋台)を含めてすべてを連続させて剛結合した構造をラーメンと呼んでいます。ラーメンは、変形が拘束されるため内部に複雜な力が加わり、一般の桁橋やアーチ橋よりも設計計算が難しくなりますが、耐震性や経済性に優れているため、特に鉄筋コンクリート高架橋やボックスカルバート(函渠)の構造として用いられています。また、外力に対する抵抗力は桁構造よりも強く、より薄肉で経済的な構造物を実現できるというメリットがあります。ちなみにラーメン(Rahmen)はドイツ語で「額縁」「窓枠」などを意味する言葉で、食べるラーメンとは全く関係はありません。また、英語ではリジッドフレーム(rigid frame/剛結された枠)と称していて、「ラーメン」では通じません。(小野田滋)
”東京上野間市街高架線(東京都・千代田区/台東区)”番外編
師匠、山手線は昔から東京を一周していたんじゃなかったんですか?
本文にもあるが、いろいろな線を接続しながら環状線になった。
その最後の区間が、今回の東京~上野間の高架線ってことですね。
その通りだ。
それまでは、どうしていたんですか?
電車の車両基地は中央線の中野にあって、中央本線は東京~国分寺間が電化されていた。
ってことは、中央本線の電車は新宿、四ツ谷を経由して東京へ乗り入れできたんですね。
そのまま東京から品川、渋谷を通ってふたたび新宿に着き、池袋、田端を経由して上野が終着だった。
東京~上野間が完成していなかったから、中央本線と山手線で往復運転していたんですね。
平仮名の「の」の字のようなルートで運転していたから、「のの字運転」とも呼ばれていた。
あっ、ほんとだ。
山手線が環状運転を開始して、今年でちょうど百周年になる。
もうそんなに経つんですか。
百年以上前の山手線を知る人はいなくなってしまったから、ほとんどの人は最初から環状線だったと思っている。
「ま~るい緑の山手線~♪」って歌が有名だから、勘違いしてました。
それは某カメラ量販店のCMソングだ。しかもアメリカの「リパブリック賛歌」という歌の替え歌だから、山手線のための曲ではないぞ。
それも勘違いしてました。
「リパブリック賛歌」はいろいろな替え歌があって、「権兵衛さんの赤ちゃんが風邪ひいた~♪」とか「お玉じゃくしはカエルの子~♪」とか……
師匠の蘊蓄(ウンチク)が長くなりそうなので、この辺で失礼します。