東京の都心を東西に横断する中央本線のうち、新宿以東は甲武鉄道市街線として建設され、1894(明治27)年に新宿~牛込(のち廃止され飯田橋)間が開業した。
この鉄道では、都市内に乗り入れる路線として、踏切を設けないこととし、江戸城の外濠に線路を敷設し、切土と盛土を巧みに組み合わせて、高架橋を建設することなくこの目標を実現した。また、四ツ谷、市ケ谷、牛込の3駅が、江戸城の見張所として機能していた「見附」と呼ばれる場所を再利用して設置された。歴史ある外濠を埋めて、鉄道を通すことに対しては反対意見もあったが、要所に短いトンネルを設け、沿線にツツジや松を植えて外濠沿いの風致の保全にも配慮した。
甲武鉄道ではさらに、都心に乗り入れる鉄道として、蒸気機関車の煙害を防止するため、電車を導入することとし、1904(明治37)年に電化された。東京に路面電車が走り始めたのが1903(明治36)年なので電車の黎明期であったが、甲武鉄道市街線は現在のJR各社に継承されている幹線鉄道では初めて電化された区間となった。また、電車を編成単位で制御する総括制御方式や、自動信号機を採用して運転本数の増加に対する保安度の向上を図るなど、その後の電車列車の発展へとつながる最新技術を導入し、路面電車には無いより進歩した電気鉄道を実現した。
「四谷見附の電車」と題した絵葉書には、外濠を埋立てて建設された四ツ谷駅と、そこに停車する2両編成の小型電車がおさめられている。江戸城のインフラをうまく再利用し、新しい時代にふさわしい都市鉄道の姿を示した甲武鉄道市街線は、中央本線の一部として今も東京の鉄道輸送を支え続けている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2011年8月号掲載)
Q&A
四ツ谷駅の奥にトンネルのようなものが写っていますが、こんな場所にトンネルがありましたか?
かつて四ツ谷駅の市ケ谷寄りに、延長25.9mの煉瓦造による複線断面の四谷トンネルがありました。現在の新見附橋の下あたりです。坑門には、家紋の代わりに甲武鉄道の社紋を付けたプロンズ製の兜の彫刻が掲げられていました。1928(昭和3)年頃、複々線化工事の際にトンネルは解体されてしまいましたが、兜の彫刻は取り外されて、鉄道博物館(さいたま市)で保存・展示されています。ちなみに、彫刻は東京美術学校(現在の東京藝術大学)の木彫家・山田鬼斎が手がけた作品です。(小野田滋)
”中央本線・四ツ谷駅”番外編
土木学会の本部って、何で外濠の中にあるんですか?
ヒントは、土木学会のすぐ横を通っている中央本線だ。
そう言えば、中央本線の電車からも見えますよね。
しかも、隣はJRの変電所だし、JR系列のスポーツクラブもある。
ってことは、鉄道と何か関係があるってことですか?
この土地は、関東大震災の後に中央本線の複々線化工事で外濠を埋め立てて、鉄道省の用地になった場所だ。
土木学会はその時、四ツ谷にあったんですか?
まだ無かった。土木学会は大正3年に創立したが、本部の場所は都心を転々としていた。
四ツ谷に移る前はどこにあったんですか?
東京駅の北側の鉄道高架橋の下にあった。国鉄出身の会員が尽力したと言われている。
そう言えば、土木学会のホームページで紹介されている歴代の会長も、鉄道の出身者が多いですよね。
土木分野はもともと鉄道と関係が深かったから、会員にも鉄道の技術者が多かったんだ。
いつ四ツ谷に移ったんですか?
昭和32年のことだ。学会の創立40周年事業で行われたが、場所選びに難航したんで、少し遅れて外濠の中の国鉄用地に建てることに決まった。
あのあたりの外濠は、千代田区と新宿区の境ですよね。
国鉄用地だったから、当時の住所は「新宿区四谷一丁目官有無番地」だった。
何だか、いかめしい住所ですね。
もう官有地ではなくなったが、今でも住所は「四谷一丁目外濠公園内」となっていて番地が無い。
「ドボ鉄」的には毎日電車が見える最高の場所ですね。