ドボ鉄054ダイヤモンドの名もしるし

絵はがき:大阪市営電車・四ツ橋交差点付近(大阪府)


 大阪市の市内電車の歴史は、1903 (明治36)年に開業した花園橋~築港桟橋間の築港線にさかのぼる。これは、わが国で最初の公営交通の始まりで、ここに自治体の経営による日本で最初の電気鉄道事業が誕生した。当初は、大阪市工務課の一担務に過ぎなかったが、1906 (明治39)年には、大阪市電気鉄道課として独立し、事業の拡大とともに大阪市電気局、大阪市交通局と改組されたが、2018(平成30)年に大阪市高速電気軌道株式会社(大阪メトロ)として民営化され、115年にわたった公営交通事業に終止符を打った。
 大阪市では、築港線に続く第二期線として、1908(明治41年)に東西線と南北線を開業させ、これらの路線が交差する四ツ橋交差点には、四方に分岐できるダイヤモンドクロッシングが敷設された。四ツ橋交差点に敷設されたダイヤモンドクロッシングは、大阪の梅鉢鉄工所 (後に帝国車輛工業を経て東急車輛製造大阪工場)で製作されたもので、国産初のダイヤモンドクロッシングと称された。「大阪四ツ橋変圧所前大交叉点」と題した当時の絵葉書には、「大阪市営電車開通紀念」と書かれた記念スタンプが押印され、交差点に敷設工事中のダイヤモンドクロッシングと、後ろに聳える赤煉瓦造の四ツ橋変圧所(のち変電所)の姿がおさめられている。
「鉄道唱歌」で知られる大和田建樹(1857~1910)が作詞した「大阪市街電車唱歌」(1908)では「又電車にて立ち帰り、西長堀の変圧所、ここは特殊の軌条にて、ダイヤモンドの名もしるし。」と謳われた。四ツ橋交差点から市電の姿が消えて久しいが、今も大阪メトロ四つ橋線が貫通し、交通の要衝として機能している。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2012年2月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

大阪市は、どうして市営交通だったんですか?

A

大阪市内の路面電車は、1902(明治35)年頃から大阪市の事業として計画が進められ、同年12月には市参事会(現在の市議会に相当する組織)によって「電気鉄道設計大要」が立案されました。その際に元関西鉄道社長で二代目大阪市長の鶴原定吉は、「都市の電気鉄道は其の事業本来の性質上市民の日常生活と密接の利害関係を有するを以て、之が経営は個人若くは営利会社の手に委ぬべきものにあらず、宜しく公共団体自ら経営すべきものなり。」と主張し、軌道系交通を市営で整備する方針を打ち出しました。このため、民間資本によって開業した他の大都市の軌道系交通と異なり、大阪市は開業時から市営による軌道系交通の整備がその基本方針として貫かれました。この思想は、のちにアメリカ大統領ジェームス・モンローのモンロー主義にたとえて「市営モンロー主義」と呼ばれました。(小野田滋)


”大阪市営電車・四ツ橋(大阪府)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

「四ツ橋」ってことは、堀があって、4つの橋が架かっていたってことですか?

師匠

この場所は、長堀と西横堀が交差していた場所で、江戸時代の舟運の頃から交差点として機能しておった。今の交差点のもう少し東側で堀が交わっていた。

小鉄

それで4箇所に橋が架かっていたんですね。

師匠

西横堀の北側に架かる上繋橋(かみつなぎばし)と南側に架かる下繋橋(しもつなぎばし)、長堀の東側に架かる炭屋橋(すみやばし)と西側に架かる吉野屋橋(よしのやばし)が架かっていた。

小鉄

堀はどうしちゃったんですか?

師匠

1964(昭和39)年に西横堀が、1970(昭和45)年に長堀が埋め立てられた。市電も1969(昭和44)年に廃止されてしまった。

小鉄

地下鉄も、その頃に開通したんですか?

師匠

1965(昭和40)年に四つ橋線が開通した。最寄りは四ツ橋駅で、路線名は「つ」で駅名は「ツ」を使っている。

小鉄

ややこしいですね。

師匠

「市ヶ谷」と「市ケ谷」、「武蔵溝ノ口」と「溝の口」、「西宮」と「西ノ宮」、「三宮」と「三ノ宮」など日本の駅名はややこしいぞ。ややこしや~、ややこしや~♪

小鉄

なだぎ武の持ちネタですね。

師匠

元ネタは、ウィリアム・シェイクスピアの「まちがいの喜劇」を翻案した野村萬斎の「まちがいの狂言」だな。

 

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