ドボ鉄059外濠沿いの高架鉄道

絵はがき:JR東日本東海道本線・有楽町~新橋間(東京都)


 東京の南のターミナルであった新橋と、北のターミナルであった上野を結ぶ鉄道は、1889(明治22)年の東京市区改正委員会の計画に基づいて具体化され、まず浜松町付近で本線から分岐し、のちに東京駅となる中央停車場までの高架鉄道を建設することとなった。都市内を貫通する鉄道は、高架鉄道として建設するという原則が示され、海外の事例からベルリンの高架鉄道をその模範とした。
 高架橋は、煉瓦積みの連続アーチを主体としたが、道路との交差部分は径間と空頭を確保するために鉄桁を用い、バックルプレートによる有道床式として都市部における騒音にも配慮した。また、都市鉄道(電車)が使用する線路と、中長距離列車(汽車)が使用する線路を完全に分離して、初めから複々線の高架橋として設計された点も、ベルリンの高架鉄道と同じ発想に基づくものであった。
 この高架鉄道は、新銭座町(浜松町付近)と永楽町(大手町付近)を結んだことから新永間(しんえいかん)市街線と呼ばれ、1900(明治33)年に建設工事に着手した。前例のない本格的な高架鉄道であったため、ドイツ人技師フランツ・バルツァーを招聘してその指導をあおいだ。そして、1909(明治42)年に浜松町~烏森(新橋)間が開業し、翌年には東京駅の北にあった呉服橋仮停車場まで達した(この時点で東京駅は未開業)。
 「特別急行列車の東京市内通過」と題した絵葉書には、外濠の水面にその姿を映した高架線の上を、特急列車が颯爽と西下する光景が捉えられている。外濠は、その後の線増工事や、戦後の東海道新幹線、首都高速道路の建設などで埋め立てられてしまったが、明治生まれの高架橋の元祖は今も健在である。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2019年9月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

市区改正委員会は、どんな組織ですか?

A

 東京の都市計画を審議するために設けられた組織で、1885(明治18)年に審議を開始した内務省の市区改正審査会がその源流となりました。「市区改正」は現在の「都市計画」に相当する言葉で、委員会の場で道路や鉄道、橋梁、上下水道、港湾、河川、公園、区画整理などのインフラ整備についての審議が行われ、その諮問に基づいて公共事業が行われました。このため、委員は、各省庁や学識経験者、軍、行政などから幅広く選ばれ、それぞれの立場で議論を交わしながら、具体的な計画が進められました。それまでの都市のインフラ整備は、それぞれの分野で縦割りに行われていましたが、市区改正委員会は関係者の意見を取りまとめて、横断的に議論することによって、都市の整備をより計画的かつ効率的に行なったことに大きな意義がありました。鉄道も都市内なので踏切を設けないことを前提とし、鉄道高架橋の下をくぐる予定の道路の位置や幅に合わせて設計されました。1889(明治22)年に完成した最初の「市区改正設計」では、新橋と上野を結ぶ高架鉄道と中央停車場(現在の東京駅)の建設が正式に決定しました。市区改正委員会は内務省が管轄し、当初は東京だけに限られていましたが、のちに他の大都市にも設置されました。1919(大正8)年に都市計画法が制定されたため、「都市計画地方委員会」がその役割を継承しました。(小野田滋)


”有楽町~新橋間(東京都)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

見比べると、ベルリンの高架橋にそっくりですね。

師匠

外観だけじゃないぞ。複々線の高架橋を建設したというところも、ベルリンと同じだ。

小鉄

でも、日本は地震が多いから、そのままの設計では不安ですよね。

師匠

日本に地震が多いことは、設計者のバルツァーも認識していて、「願わくば日本の首都に末永く大地震が起こらないよう祈る。」と書き残していた。

小鉄

ずいぶん弱気ですね。だいじょうぶですか?

師匠

バルツァーも判断できなかったので、震災予防調査会という政府の組織に調査を依頼して専門家の助言をもらい、インドのアッサム地方で発生した大地震の調査に技術者を派遣して対策を考えた。

小鉄

耐震設計は無かったんですか?

師匠

耐震設計の考え方が理論化されるのは大正時代になってからだから、まだそんなものはなかった。

小鉄

じゃあ、震災予防調査会の助言やインドの地震調査は、無駄だったってことですか?

師匠

震災予防調査会の助言を踏まえて、高架橋の柱をところどころ太くして、地震の際に高架橋が連鎖的に崩壊することを防ぐという結論になった。

小鉄

ってことは、現地に行くと高架橋の柱がところどころ太いってことですよね。

師匠

その通りだ。バルツァーはこれを「グループ橋脚」と呼んで、数径間おきに太い柱を設けた。

小鉄

全部同じように見えましたけど、太い柱には気が付きませんでした。

師匠

現在の耐震壁のような考え方だが、関東大震災でも高架下の火災はあったものの、高架橋そのものはびくともしなかった。

小鉄

バルツァーも安心したでしょうね。

師匠

耐震設計の考え方も固まってなかった時代だったが、当時の知恵を絞って万全の対策を考えていたということだ。

小鉄

備えあれば、憂いなしですね。

師匠

その後も現在の耐震基準に合わせた補強工事や、地盤沈下対策工事などが行われて、100年以上経った今も現役だ。

小鉄

そういえばこの間、有楽町の高架下をリニューアルして「日比谷 OKUROJI」という商業施設がオープンしたって、ニュースで話題でしたよ。

師匠

煉瓦の高架橋を眺めながら、ショッピングも楽しめるなんて「ドボ鉄」的には贅沢の極みだな。

小鉄

「日比谷 OKUROJI」へ行くついでに、グループ橋脚を探してみます。

工事概要
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