中央本線のうち、名古屋側は中央西線として建設が進められ、1896(明治29)年に名古屋鉄道局出張所が設置されて、中央東線との接続点となる宮ノ越をめざして全34工区に分割して工事が開始された。愛知県と岐阜県の県境に位置する中央本線の多治見~高蔵寺間は、その第7~第9工区にあたり、土岐川(美濃側では土岐川、尾張側では庄内川と称するほか春日井付近では玉野川とも称する)をさかのぼるようにして14箇所のトンネルが掘削された。
川沿いの山腹に線路を敷設したため偏圧を受けやすく、一部のトンネルでは変状や崩壊が生じ、補強工事を行うなど施工に難渋した。工事は1900(明治33)年に竣功し、同年7月25日には名古屋~多治見間が開業して、逓信大臣を迎えて開業式が挙行された。
「(多治見名所)中央線濃尾国妹背隧道及天ヶ橋」と題した絵葉書には、土岐川に架かる天ヶ橋をはさんで、手前に第9号トンネル(諏訪第3トンネル)、奥に第10号トンネル(諏訪第4トンネル)が写り、その間を列車が進行している。第9号トンネルは、1940(昭和15)年に池田信号所(のち古虎渓駅となる)を開設した際に撤去された。
その後、1966(昭和41)年には複線化と防災強化を兼ねて、古虎渓~定光寺間に延長2910mの愛岐トンネルが新ルートで完成し、川沿いの路線は廃止された。旧線の廃線跡のうち、愛知県側の約1.7km区間は地元のNPO法人「愛岐トンネル群保存再生委員会」によって管理され、年に数回のイベントで開放されている。また、2016(平成28)年には第3号トンネル(玉野第3トンネル)、第4号トンネル(玉野第4トンネル)、笠石洞暗渠の3件が国登録有形文化財に登録された。
なお、中央西線の名古屋~多治見間の工事では、第5号トンネル(隠山第1トンネル)の崩壊事故を含めて二十余柱の尊い犠牲者を出したが,開業を目前に控えた1900(明治33)年6月に地元の春日井市玉野町太平寺に慰霊碑が建立された。碑面にある「死有餘榮」の文字は,「死して限りない栄誉を残した」(死して余栄あり)という意味で、地元の高蔵寺出身で、教育者としても知られ、高蔵寺住職であった武藤舜應(1871~1943)による撰文が奉げられた。その後、開業百周年を迎えるにあたって、国鉄OB有志などによって定光寺駅の近くの東海自然歩道春日井コースの入口(玉野東谷公園入口)付近に移設され、2000(平成12)年10月26日に慰霊祭が挙行された。移設にあたっては、碑の由来と移転の経緯を記した副碑が新設された。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2017年10月号掲載)
Q&A
明治時代のトンネルは、なぜ煉瓦が多いんですか?
コンクリートが普及する大正時代までは、トンネルに限らず土木・建築工事では煉瓦や石材が使われていました。石材は重いので、トンネルのアーチに積むことは難しく、軽量で扱いやすい煉瓦を使っていました(アーチに石材を用いたトンネルもごくまれにあります)。なお、側壁と呼ばれるアーチを支える両側の部分や坑門は石材でも積めるので、石材と煉瓦のどちらも使っていました。愛岐トンネル群は、基本的にアーチも側壁も煉瓦造ですが、坑門の隅石などの一部には石材も使用しています。(小野田滋)
”愛岐トンネル群(岐阜県多治見市/愛知県春日井市)”番外編
廃線トンネルをくぐれる場所は、ほかにもあるんですか?
日本全国にあるぞ。
たとえば?
関東地方で明治時代のトンネルだと、群馬県の碓氷峠が有名だな。
関西地方にもありますか?
西宮市と宝塚市にまたがる福知山線の廃線跡があるぞ。
東海地方は、今回の中央線の愛岐トンネル群ってことですね。
それぞれに見所があるから、事前に下調べをしておくと、いろいろな発見があるぞ。
愛岐トンネル群は、どこか見所がありますか?
普段は土の中に埋もれていて見られないインバートいう部分の一部を掘り起こして、見られるようにしている。
インバートって何ですか?
路盤に設けられる、アーチを仰向けにしたような構造で、地質の悪い場所などで用いられる。
つまり、左右をつないで、梁のように突っ張るってことですか?
トンネルの断面を閉じて、より頑丈な構造にするという訳だ。
普通のトンネルは閉じないんですか?
地質が良ければインバートを取付ける必要がないから、インバートを設けたトンネルは珍しい。愛岐トンネル群も、第6号トンネルだけにインバートがある。
路盤の下に埋まっているから、ふだんは見えないってことですよね。
トンネルの本体はほとんどが地山の中に埋まっているから、図面や工事記録で確認するしかないな。
そのインバートが見られるのは、貴重だってことですね。
見つけてくれた人に「アッパレ」だ。