今回紹介する「大正十一年八月廿五日旭川市大洪水ノ実況」と題した絵葉書には、濁流が押し寄せる函館本線近文~旭川間の第2石狩川橋梁の姿がおさめられ、「石狩川鉄橋付近亀吉島全滅ノ惨状」とある。記録によれば、1922(大正11)年8月24日から同月25日にかけて北海道地方を襲った暴風雨は、函館本線、幌内線、室蘭本線、夕張線、留萌線、宗谷本線、根室本線、富良野線、網走本線、湧別線、名寄線などに甚大な被害を与えた。
亀吉島は、石狩川にあった中州で、当時の鉄道災害記事では、「線路築堤百四十立坪決壊シ、橋梁袖石垣十立坪決壊シ、道床砂利十立坪流失セリ。」と記される。この暴風雨では、函館本線第1空知川橋梁などで桁が流出したが、石狩川橋梁は何とか持ちこたえたようである。しかし、石狩川の中州であった亀吉島は、キャプションにもあるように水没してしまった。
亀吉島の名は、秋田県出身で、旭川に定住した最初の開拓民とされる鈴木亀蔵の愛称「亀吉」にちなみ、近傍にはその居宅跡の記念碑が建ち、亀吉という地名にも継承されている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2013年6月号掲載)
Q&A
第2石狩川橋梁の右岸にある「今津不非登君之碑」は、どんな由来がある石碑ですか?
石狩川の洪水で亡くなった、東京帝国大学学生の今津不非登の慰霊碑です。1898(明治31)年9月5日から8日にかけて、北海道地を暴風雨が襲いましたが、建設中の北海道官設鉄道で現場実習をしていた東京帝国大学工科大学土木工学科学生の今津不非登が、豪雨の中を第2石狩川橋梁の架橋現場の監視に赴き、小舟が転覆して遭難しました。今津不非登は、1874(明治7)年に岐阜県郡上八幡で生まれ、1895(明治28)年に東京帝国大学へ進学しました。直木倫太郎、石川鼎、岡野昇らと同学年で、無事であれば1899(明治32)年7月に卒業するはずでした。当時、北海道鉄道部長の田邊朔郎は、将来ある今津の死をことのほか悼んで、1898(明治31)年10月に、大谷派東本願寺旭川別院境内に慰霊碑を建立しました。碑文は「北海道蝦夷語地名解」の編纂で知られる永田方正の撰文で、書は佐々木通一によるものです。田邊はその後も年1回の供養を欠かさず、その慣習が鉄道殉職者の慰霊祭へ継承されたと伝えられています。碑は、大谷派東本願寺旭川別院(旭川市官下通二丁目)の境内にありましたが、2006(平成18)年10月に現在の場所へ移設されました。(小野田滋)
”函館本線・第2石狩川橋梁(北海道旭川市)”番外編
名所や花の絵葉書ならともかく、災害の絵葉書なんてもらっても、あまりうれしくないですよね。
それは今の価値観だ。
どういうことですか?
まだ写真が一般的ではない時代だったから、当時の絵葉書には最新の出来事を画像として伝える役割があった。
今の写真週刊誌やインターネットのようなものですかね。
絵葉書は手紙としての役割もあるから、画像に加えて自分の感想や意見を伝えることもできる。
SNSに近いってことですね。
テレビやインターネットが無かった時代は、絵葉書は画像情報を伝達する有力なメディアのひとつだった。
でも絵葉書では、動画は送れないですよね。
昔は「ニュース映画」というのがあって、映画の合間にニュースを上映していた。
たしかに映画なら画像情報を配信できますね。
今のようにスマホで簡単に撮影できないし、フィルムを全国の映画館に配らなければならないから、大変な作業だった。
師匠も、SNSを始めて情報発信したらどうですか?
いまさら発信するような話題も無いがな。
そうじゃなくて、師匠の生存確認のためですよ。
余計なお世話だ💢