ドボ鉄133大和棟とモダニズム

絵はがき:近畿日本鉄道橿原線・橿原神宮前駅(奈良県橿原市)


 奈良県橿原市にある橿原神宮は、神武天皇を祀るために1890(明治23)年に創建され、建築家・伊東忠太の設計により完成した。1940(昭和15)年の紀元2600年では、社殿の改築や神域の拡張などの整備工事が行われた。これに合わせて、最寄り駅となる橿原神宮駅の整備や、臨時列車の運転などが実施され、新しい橿原神宮駅駅(駅が重複する「駅駅」を称したが1970(昭和45)年に現在の「橿原神宮前駅」に改称)は、大阪電気軌道、大阪鉄道、鉄道省(接続していなかったが連帯運輸を行っていた)の三社の「綜合駅」として完成した。
 紀元2600年を記念して改築された現在の橿原神宮前駅の駅本屋は、大和棟と呼ばれる大和地方の民家に見られる急傾斜の屋根を採用した点に特徴がある。橿原神宮前駅の大和棟は、日本の伝統的な建築様式に新たな解釈を加え、簡潔明快、荘厳かつ清浄な緊張感あふれる造形へと昇華させた点に特徴がある。日本建築の様式美を、見事に現代に甦らせたデザインは、この駅を設計したとされる建築家・村野藤吾の並々ならぬ力量を示している。
 橿原神宮前駅は、木造二階建の駅本屋として、1939(昭和14)年に完成し、皇族や要人のための貴賓室を備えた。大空間を支える太い梁の造形などから、一見、鉄筋コンクリート構造のように見えるが、実はすべて木造で、二階部分は大屋根の中に収容されている。屋根を支える小屋組として木造ラチス構造を用い、柱のない大空間を実現した。
 のちにモダニズム建築の旗手として戦後の建築界を牽引した村野が、モダニズムを基調としながらも機能一辺倒に陥らず、繊細なディテールを多用して、どこか人間的な要素を残した点に特徴があった。橿原神宮前駅も、威圧感のある屋根で象徴される外観とは逆に、屋内のコンコースは柱の無い大空間を構成しつつ、壁面のレリーフや梁に施された「猪の目模様」の装飾、天窓や扉のディテールに村野らしい美的感覚を見出すことができる(特に「猪の目」はのちの村野藤吾の作品でもしばしば用いられた)。伝統的な和風建築をモダニズムの中でどのように咀嚼すべきか、その回答を帝冠様式という木に竹を接いだような安易な和洋の組み合わせではなく、大和棟を基調とした大胆な造形で示した点に、橿原神宮前駅の真価がある。(小野田滋)(書き下ろし)

 

この物件へいく


Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

吉野鉄道は、今の何線ですか?

A

近鉄吉野線になります。吉野鉄道は、1912(大正元)年に国鉄線(和歌山線)の吉野口と吉野を結ぶ吉野軽便鉄道として開業しました。吉野軽便鉄道は1913(大正2)年に吉野鉄道と改称し、1923(大正12)年には吉野口~橿原神宮前間、翌年には橿原神宮前~畝傍間の支線(小房(おうさ)線)が開業しました。1929(昭和4)年に大阪電気軌道に吸収合併されて同社の吉野線となりましたが、大阪電気軌道の線路幅は標準軌(1,435mm)であったため乗入れができず、狭軌(1,067mm)を用いていた大阪鉄道と接続し、大阪方面(阿倍野)からの直通列車を走らせました。大阪電気軌道と大阪鉄道はともに大阪と奈良方面を結んでライバル関係にありましたが、最終的に両社は1943(昭和18)年に合併して翌年には近畿日本鉄道となり、大阪電気軌道は現在の近鉄橿原線、大阪鉄道は現在の近鉄南大阪線となりました。なお、小房線は、1945(昭和20)年に旅客営業を休止し、1952(昭和27)年に廃止されました。(小野田滋)


”近畿日本鉄道橿原線・橿原神宮前駅(奈良県橿原市)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

「猪の目模様」って、どんな模様ですか?

師匠

ハート型をした模様のことだ。

小鉄

あっ、天井の梁の部分にあるこの模様のことですね。

師匠

イノシシの眼に似ているのでこの名があるとされる。

小鉄

眼というより鼻に似ているようにも見えますけれど……。

師匠

昔から伝わる模様だから、モチーフについては諸説あるが、日本の伝統的な模様のひとつだ。

小鉄

ってことは、ハート模様は日本人が考えたってことですか?

師匠

たまたま形が似ているだけだ。

小鉄

「猪の目模様」には何か特別な意味があるんですか?

師匠

魔除けとして用いられたようで、神社などの古建築や古代の刀装具などにしばしば見られる。

小鉄

そういえば、赤塚不二夫の漫画に出てくる「本官さん」も「猪の目」みたいな目をしてますよね。

師匠

「本官さん」を知っているってことは、さては昭和の生まれだな。

Back To Top