日本の鉄道は、1872(明治5)年10月14日(旧暦9月12日)に開業式が行なわれて新橋~横浜間が開業し、この日がのちに鉄道記念日となった。このうち、品川~横浜間はそれより4か月前の6月12日(旧暦5月7日)に仮開業し、陸蒸気が牽引する列車が営業運転を開始した。このため、品川駅高輪口にある「品川駅創業記念碑」には、「明治五年五月七日」の日付と仮開業の際の時刻表が記されている(碑は品川駅改良工事に伴い一時撤去中)。
今から約百年前の鉄道開業50周年の際に発行された「鉄道開通五拾年紀念」絵葉書のうち「昔の品川駅」と題した絵葉書には、江戸時代の旅を象徴するキャラクターとして弥次さん喜多さんとおぼしきコンビが描かれ、絵師によって着色された品川駅の絵が添えられた。高輪沖を背景とした品川駅は、現在の品川駅よりも南側の八ツ山橋の北側付近にあり、東側は海岸線であった。
元の写真が不鮮明だったのか、絵葉書を制作した絵師の腕前が今ひとつだったのかは定かでないが、写真では海岸沿いに位置していた品川駅の様子をかろうじて確認できる。また、プラットホームを結んでいる鉄製の跨線橋は、1882(明治15)年に設置されたので、絵葉書の元となった写真はそれ以降の撮影と推察される。この跨線橋の柱には、同年に鉄道寮新橋工場で製造されたばかりの鋳鉄(ちゅうてつ)製の柱が使用され、川崎駅、神奈川駅の跨線橋でも用いられた。
高輪沖は、大正時代に本格的な埋立工事が開始され、品川駅構内も客車操車場を新設するなどして拡張されたほか、1933(昭和8)年には京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)が山側に接続して大きく変化した。
「品川駅創業記念碑」の背面に刻まれた仮開業当時の時刻表によれば、列車は1日2往復のみで、品川~横浜間の所要時間は35分であった(ちなみに現在の京浜東北線の品川~桜木町間の所要時間は約30分)。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2022年11月号掲載)
Q&A
鋳鉄はどんな鉄材料のことですか?
鋳鉄は、鋼鉄に比べて炭素が多く含まれ、一般に2.1%以上含まれると鋳鉄とされています。溶かした鋳鉄を型に流し込んで作られたものを鋳物(いもの)と称し、砂型で型をとります。強度は劣りますが、簡易な設備で容易に製造することが可能で、日本では弥生時代にその技術が伝わったとされ、南部鉄器や梵鐘の製作などに用いられました。明治維新以後は、錬鉄や鋼鉄など強度特性に優れた鉄材料へと移行しますが、鉄柱や車両部品など複雑な形状の製造品で用いられました。(小野田滋)
”東海道本線・品川駅(東京都港区)”番外編
品川駅の右側は、海のように見えますけど、あんな場所に海岸線はありませんよね。
今は埋め立ててしまったから、品川駅からは海は見えないが、鉄道が開業した頃は、ほぼ海岸線に沿っていた。
?
新橋と品川の間は、東海道の街道にそって人家が密集していて、鉄道を通すことが難しかった。
それは困りましね。
そこで考えたのが、海側の高輪沖に築堤を築いて線路を通すことだった。
つまり、鉄道を通すために海を埋め立てたってことですか?
2019(平成31)年に、高輪ゲートウェイ駅付近の工事現場でその築堤が発掘されて話題になった。
高輪築堤のことですね。
その南端に設けられたのが品川停車場だ。当時の地図によれば今より八ツ山橋に近いあたりに位置していたらしい。
あっ、地図にも跨線橋が描かれてますよ。
新橋~横浜間が開業した時は、品川駅と神奈川駅に「駅往還」と称して木製の跨線橋が設けられた。
初めは木製だったんですね。
その後、1882(明治15)年に品川駅と神奈川駅は鉄製の跨線橋に改築され、川崎駅にも鉄製の跨線橋が設置された。
新橋工場で製造された鋳鉄柱を使ったんですね。
その後も、鋳鉄柱を使った跨線橋は明治時代の末くらいまで使用された。
そのひとつが、この滋賀県の東海道本線にある河瀬駅の跨線橋ですね。
河瀬駅は駅を橋上駅に改築した際に跨線橋が廃止され、モニュメントとして柱だけが移築保存されたが、こうした例は全国にいくつかあるぞ。
そういえば、最近は橋上駅が多くなって、昔のような幅の狭い跨線橋は少なくなりましたね。
最近は老朽化やバリアフリー化などで昔ながらの跨線橋が姿を消しつつあるから、今のうちに記録を残しておく必要があるな。
調べる時のポイントがありますか?
柱の間隔がポイントだ。通路の幅と階段の幅である程度規格化されていた。あとは、柱の銘は必ず確認しておくことだ。
明治村の鋳鉄柱にも銘がありますね。
すべての鋳鉄柱に銘があるわけではないが、銘を確認することで製造年や製造所を特定できる。
これからは注意して見てみます。
銘を探すことは構造物調査の基本だから、肝に銘じるように。
それって、駄洒落のつもりですか?
余計なツッコミをするようでは、肝に銘じていないようだな💢