信越本線は、来迎寺~前川間で信濃川橋梁を渡って長岡(宮内)へと至る。初代の橋梁は信越本線の前身である北越鉄道によって架設され、1898(明治31)年に開業した。径間200フィート(約61m)クラスの単線下路プラットトラスを6径間にわたって連ね、イギリスのダービーにあった鉄工所のアンドリュー・ハンディサイド社(Andrew Handyside and Company)で製造された。
当時の径間200フィートクラスのトラス橋は、イギリス製のダブルワーレントラスが主流で、ほどなくアメリカ製のシュウェドラートラスへと移行したが、ハンディサイド社で製造されたトラス橋は、ピン接合ではなくリベット接合で、一部にコッターピンを用いたのが特徴であった。
「(来迎寺名所)鉄橋」と題した絵葉書には、この初代の信濃川橋梁の全景がおさめられるが、この橋梁は別名「浦村の鉄橋」「浦鉄橋」などと呼ばれ、地域の新名所となっていた。初代信濃川橋梁は、老朽化したため1952(昭和27)年の複線化によって別線に付替えたのち道路橋に転用改造され、「越路(こしじ)橋」と名付けられて有料道路として利用された。
その後、1967(昭和42)年に道路は無料化され、さらに交通量の増加とともにバイパスが建設されることになったため、1998(平成10)年には新橋にその役割をバトンタッチして撤去された。
越路橋は、鉄道橋、道路橋として約100年間にわたって地域の交通を支え、その独特のスタイルは地域のランドマークとしても親しまれていたため、近隣の長岡市越路河川公園に短縮改造した上で保存されたほか、近隣の道路橋(不動沢橋、岩田橋)にも転用されて今も現役である。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2019年4月号掲載)
Q&A
なぜ信濃川橋梁は「浦村の鉄橋」と呼ばれてたんですか?
北越鉄道が開業した1898(明治31)年頃、このあたりは「新潟県三島郡浦村」という地名でした。鉄道橋の多くは、建設した当時の地名や川の名前にちなんで名付けられているため、今では無くなってしまった地名がそのまま使われていることがよくあります。東京都内でも、銭瓶町橋高架橋、黒門町橋高架橋などの例があります。また、川の上流と下流で川の名称が変わると、同じ河川でも別の橋梁名が付けられることがあります。東京の近郊でも、六郷川橋梁(多摩川)、馬入川橋梁(相模川)にどの例があります。鉄道構造物や踏切の名称を調べると、その地域の歴史をたどることができます。(小野田滋)
”信濃川橋梁(新潟県長岡市)”番外編
ハンディサイド社製のトラス橋は珍しいんですか?
数は少ないが、いくつか残っている。
信濃川橋梁は背が高いトラス橋だから、長さを短く改造しても目立ちますね。
短くしたら、さらに高さが強調された。
大きい割には華奢(きゃしゃ)ですね。
イギリス製のトラスはだいたい部材が骨太だが、信濃川橋梁で使われたハンディサイド社のトラスは、部材が細いのが特徴だ。
メタボな体から、背が高くてスマートな体形になったってことですか?
同じ径間200フィートクラスの単線トラス橋を比べると、イギリス製のダブルワーレントラスは重量160トンくらいあったが、ハンディサイド社製のプラットトラスは重量140トンくらいで済んだ。
ダイエットに成功ですね。
ところが、同じ頃には鉄道の輸送量が増えたために、蒸気機関車を大型化することになった。
そうなると、古い橋では機関車の重さを支えられなくなってしまいますね。
そこで、アメリカの技術者に依頼して、大型の機関車にも対応できる新しいトラス橋が設計された。
それがアメリカ製のトラス橋ってことですね。
アメリカ製のトラスは、ドボ鉄第20回でも紹介したとおり、明治30年代に普及した。
重さは軽くなったんですか?
同じ径間200フィートクラスのトラス橋で、190トンくらいあった。
ダイエット失敗ですね。
何を言っておる。機関車の重さが増えたから、トラス橋もそれに合わせて頑丈に作らなければならず、おのずと橋の重さも増えることになる。
つまり、マッチョな体になったってことですね。
そういうことになるな。それにしても今日のお前さんはずいぶん体形にこだわるな。
橋を人体に例えると、いろいろな体形があるんだと気付きました。
「ドボ博」の趣旨にも「インフラには人体組織との類似点が数多く見出される」とあるから、いいところに気付いたな。
師匠もメタボに気を付けた方がいいですよ。
余計なとこまで気付く必要はないぞ💢