大阪と京都を結ぶ京阪電気鉄道は、1906(明治39)年に設立され、1910(明治43)年に最初の路線として大阪の天満橋と京都の五条の間が開業した(現在の京阪本線)。路線は、淀川の北岸にそって敷設された東海道本線と競合しないように、淀川の左岸(南側)にそったルートを選択し、中間の八幡宮(現在の石清水八幡宮)の付近で右岸へ移って伏見~宇治付近を経由して京都へ至った。石清水八幡宮のあたりは、桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となるいわゆる「三川(さんせん)合流地点」として知られ、京阪電気鉄道はこの難所に木津川橋梁と宇治川橋梁を架けて、S字を描きながら巧みに川を渡った。
橋梁は基本的に河川を斜めに横断せず、直角に渡ることで川を最短距離で横断し、河川に対しても河積阻害率が最小となるように計画される。このため、大阪方面から京都方面へ向かう電車は、石清水八幡宮付近で方向を変えて木津川橋梁で直角に横断し、さらに宇治川橋梁で宇治川を直角に横断したのち京都方面をめざした。
「京阪電気鉄道開通紀念・明治四十三年四月」の記念スタンプが押された絵葉書には、短径間の複線プラットトラス(木津川橋梁9連、宇治川橋梁7連)がずらりと並んだ開業時の宇治川橋梁と木津川橋梁の姿がおさめられた。その後、輸送量の増加とともに車両が大型化し、2両連結の電車が走るようになったため、木津川橋梁と宇治川橋梁は早くも1927(昭和2)年~1929(昭和4)年に新しいトラス橋に架替えられ、現在に至っている。(小野田滋)(書き下ろし)
Q&A
「河積阻害率」って何のことですか?
「河積阻害率=(橋脚数×橋脚幅)÷河川幅」という式で表されます。河川や橋梁の条件によって異なりますが、一般に5%以下(新幹線では7%以下)とすることを目安としています。阻害率を低くするためには、橋脚の数を減らさなければなりませんが、そうなると大規模な橋梁を架けなければならず、工事も大がかりとなるため、河川管理者側と協議をしながら決めています。(小野田滋)
”京阪電気鉄道・木津川橋梁/宇治川橋梁(京都府八幡市)”番外編
地形図を見ると、三川合流地点を苦労しながら渡っているのがよくわかりますね。
河川を直角に渡るために、S字曲線を連続させた。
わざわざ三川合流地点を選ばなくても良かったんじゃないですか?
京阪電鉄は昔の京街道にほぼそっていて、鉄道が未開業だった淀川の左岸に路線を求めた。
京街道?
東海道53次は、京の三条大橋が終点だったが、さらに大阪を結んだのが京街道だ。
宿場もあったんですか?
伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4宿があった。
京阪電鉄の路線と重なりますね。
東海道の続きだったから「東海道57次」と呼ばれたこともあったようだ。
それにしても関西のトラス橋は、JRも私鉄も短いトラス橋がたくさん並んでいますが、何か理由でもあるんですか?
京都~大阪~神戸を結ぶ鉄道は明治時代の初期に整備されたが、まだ大規模な橋梁は一般的でなかった。1874(明治7)年に開業した東海道本線の大阪~神戸間では、支間長70フィートの短いトラス橋が用いられた。
70フィートって、どのくらいの長さですか?
1フィートが約0.3mだから、およそ21mだ。
山手線の電車1両分くらいの長さですね。
その後、1877(明治10)年に全通した大阪~京都間では支間長100フィートのトラス橋を使った。
ということは、約30mだから、新幹線の電車1両分より長いですね。
この時代はこれが限界で、その倍の支間200フィート(約60m)のトラス橋が出現するのは、1885(明治18)年になってからだ。
長い支間のトラス橋が登場する前に、短いトラス橋を架けていたということですか?
特に意識してそうなったわけではなく、結果的にそうなったことになるかな。
でも、関西の私鉄も短いトラス橋が多いですよ。
たぶん、先行した国有鉄道に合わせただけだと思うが、新しい橋梁に架替える際に橋脚の間隔を広げた橋梁もあるから、問題を先送りにしていたというわけではない。
たしかに、東海道本線の下淀川橋梁とか阪神電鉄の新淀川橋梁は、支間の長いトラス橋に架替えていますね。
河川改修と橋梁の関係は、もう少し深掘りする必要があるかな。
また新しい宿題が増えましたね。
宿題が増えるばかりで、一向に完成する気配がないようだが?
問題は先送りということで……。