四国インフラ014 大谷川砂防堰堤

水を受け流し続ける<細胞>


四国で唯一現存する明治期の砂防堰堤。砂防の父、ヨハネス・デ・レイケの指導に基づいて築造されたといわれている。

ヨハネス・デ・レイケ(1842-1913)は、明治政府が治水技術を導入するためにオランダから招いた河川技術者で、徳島県には明治17(1884)年に来県。約3週間という短期間で吉野川を中心とした治水調査をおこない、その結果に基づく提案をまとめた『吉野川検査復命書』を内務省に提出した。当時、吉野川左岸の支流(大谷川等)は典型的な扇状地を形成しており、洪水の度に大量の土砂を流出、本流にも大きな影響を与えていた。デ・レイケは本流の改修工事に先立ち、支流の荒廃流域からの土砂流出を抑制する砂防工事の必要性を報告。これに基づき明治18(1885)年から明治22(1889)年にかけて、内務省直轄で砂防堰堤等の工事がおこなわれた。

復命書の中では、堰堤の築造だけでなく、上流の森林を監理する守林者を置き、森林の持つ“地中に水を蓄える力”や“時間をかけてその水を川に流す力”等、いわゆる「緑のダム」のはたらきを保護しなければ砂防工事の効果は少ないと説いている。外から新しい<細胞>をつくり足すだけでなく、元々ある<細胞>のはたらきを活かし育てることが<免疫力>向上につながる、ということではないだろうか。

一方、大谷川については「平常は水がなく砂礫ばかりである。両岸の高さは20間から25間(約36~45m)、崩壊地が多い。山はハゲ山である」と記されているが、大谷川砂防堰堤に関わる直接的な記述はないため、デ・レイケがどの程度関与したのかは必ずしも定かではない。

今日見る大谷川砂防堰堤は、3段のアーチが緩やかに広がり、表面に張られた石は中央部に近づくほど水に削られて滑らかな肌をしているが、その1つ1つの石は実に力強く張り付いている。長年に渡って水の力を受け流し続ける<細胞>の様に、思わず見入ってしまう。(板東)

この物件へいく

参考文献

重山陽一郎:大谷川デ・レーケ堰堤(土木紀行),土木学会誌,Vol.86,No.3,2001.

種別 砂防堰堤
所在地 徳島県美馬市脇町大字北庄
構造形式 石造堰堤
規模 堤長60m 堤高3.3m
竣工 明治19(1886)年
備考 平成12(2000)年度土木学会選奨土木遺産 平成14(2002)年登録有形文化財(建造物)
土木学会選奨土木遺産ダムフォトライブラリー
Back To Top