四国インフラ056 花園町通り

子規ゆかりの地の再生


松山の生んだ文学人、正岡子規は、松山藩士正岡常尚の長男として、現在の花園町通り西側(松山市新玉町)に生まれた。しかし、生誕の地について知る人はあまりおらず、この地に建てられた子規生誕の地の石碑の周りには、放置駐輪が取り囲む始末であった。

花園町通りの由来については、藩政時代に松山藩主の「御花畑」という別墅が付近に存在していたことによるといわれている。松山城下のこの通りは、現在は松山市駅から北へ延びる電車通りとなっているが、戦前は、堀之内にあった陸軍の歩兵第二十二連隊と松山市駅を結ぶただ一つの本通りとして栄えた。当時はかなり幅員が狭く、人通りが多い時には譲り合いながらすれ違うほどであったが、戦後に現在の姿へと整備された。

花園町通りは、平成29(2017)年の秋に道路空間の再配分と無電柱化、自転車道の整備が実施され、広い歩道と小さな庭が配置された新しい空間が生まれた。そこでは、日常的に通りを楽しむ人々の姿が見られ、市民が集うマルシェなどのイベントが開催されたりと、松山の町の循環器として再び機能し始めた。子規生誕の地の石碑の周りには、子規の句で詠まれた草木が植えられ美しい空間に生まれ変わった。

「春や昔 十五万石の 城下かな」

は正岡子規の名句として知られるが、この町で暮らす人々が、歴史や故郷に思いを馳せながら暮らし続けたいと思える空間づくりの一翼を担うことを期待する。(片岡)

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