四国インフラ069 別子銅山

<細胞>を活性化し続けた世界一の銅山


別子銅山は元禄3(1690)年に発見され、翌年に幕府の稼業許可を受けて採鉱が始まる。17世紀後半から18世紀前半にかけては、栃木県の足尾銅山と双璧をなして、銅の生産量を世界一にまで押し上げた。長崎の出島を経由して、世界中に別子の銅が輸出されたのである。

膨大な採鉱量。銅の採鉱に合わせて、人も移り住んだ。まず東延に採鉱本部が建設されがまちとつくられた。大正5(1916)年には東平とうなる、昭和5(1930)年には端出場に採鉱本部は徐々に北側に移され、同時に人も移動した。東平では、標高750mの高地にあるにも関わらず、最盛期には当時3,800人が暮らしていた。また当時、精錬所があった燧灘の四阪島では、多くの人が移り住み、海上都市を形成していた。このように別子銅山は、まさに都市の<細胞>である人を活性化させ、<代謝機能>として作用していた。

その後も別子銅山は都市の<細胞>を活性化し続ける。昭和12(1937)年、新居浜市が発足するが、当時の人口32,254人。対して、鉱工業の発展とともに昭和55(1980)年には人口132,339人のおよそ4.1倍にまで膨らんだ。日本の総人口の同年の増加がおおよそ1.6倍であるから、その<細胞>の活性化の勢いが非常に強いものであったことがわかるであろう。

この事実だけでも、別子銅山がなければ、こんにちの新居浜の発展もなかったであろうことは想像に易い。その別子銅山も昭和48(1973)年に閉山し、産業は鉱業から工業へと移り変わり、利用されていた発電所や貯鉱庫や鉄道の停車場はその機能を終えた。鉱業として<代謝機能>を維持し続けてきたこれらの施設群は、眠りについているが、今でも非常に見応えのある景観を残してある。これらの産業遺産群は役割を完全に終えているわけではないだろう。今後は観光やまちづくりとしての役割を果たし、<代謝機能>とし<細胞>を活性化し続けていくことを切に期待している。(山田)

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参考文献

財団法人えひめ地域政策研究センター:愛媛温故紀行―明治・大正・昭和の建造物、アトラス出版、2003
篠部裕ら:企業都市における企業の都市施設整備に関する研究―新居浜市を研究対象としてー、日本都市計画学会研究論文集、pp.223-228、1992
岡田昌彰:瀬戸内における産業風景の重層性、土木史研究講演集vol.28、pp279-285、2008

種別 鉱山
所在地 愛媛県新居浜市
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