木曽三川の河川整備

木曽三川とよばれる木曽川、長良川、揖斐川はかつて網目のように互いに入り組んで、それゆえ一たび大雨となると標高の低い揖斐川に結局洪水が押し寄せていた。流域で島のようになった各集落は「輪中」と呼ばれるコミュニティを築き、堤防で囲み洪水に対応してきたが、江戸時代中期に「宝暦治水」と呼ばれる薩摩藩による普請、さらに明治時代にオランダ人技術者ヨハネス・デ・レーケ(1842-1913)らが指導した「明治改修」により、三川が分流された現在の姿がほぼ形作られた。

 

河川整備では治水のみならず舟運機能も重視され、明治改修ではケレップとよばれる水制により流心の水深を維持確保したほか、木曽川と長良川を分流後も行き来できるよう「船頭平閘門」もあわせて整備され、現在も船が往来できる。

場所