四国インフラ068 新居浜

<脳幹>により形成されたユニークなまち


日本のまちは、中近世のお城や街道を中心に形成され、現代もそれを引き継いだ形で発展しているケースが多いが、それらとは異なる「企業城下町」と呼ばれるまちが幾つか存在している。その名前の通り、特定の企業の影響を色濃く反映したまちのことである。中でも、「住友」がある新居浜市は、そのまちの発展自体が日本の他のまちと比べて特異である。

江戸時代の新居浜周辺は、大規模な塩田を除けば、簡単に言うと農村地域であった。その農村地域に、元禄3(1690)年に発見された別子銅山を契機とした都市形成が行われる。ビジネスをはじめとした都市の理性的な情報処理を担う<左脳>の機能を有する口屋地区がつくられた。明治26(1893)年には、住友の手によって鉱山鉄道(のちに市民も利用)が敷設された。日本国内でも比較的早い段階での導入である。鉄道敷設に伴い、都市の<左脳>は口屋から惣開へと移り変わる。その後も住友による都市計画は継続される。その中でも最も大きな影響があったのは、住友別子銅山最高責任者であった鷲尾勘解治の都市計画であろう。新居浜港の築港、埋め立てによる工業用地の造成、昭和通りの建設である。当時、島であった御代島は新居浜港の建設に伴い、新居浜と陸続きとなった。この私港は、のちに公共港へと移管されている。この他にも住友が建設した施設は枚挙に遑がなく、負担した費用も膨大である。住友という企業は、新居浜の骨格形成に大きく寄与している。

中でもユニークなのが、山根グラウンドである。このグラウンドを構成している階段上の石積みは、「作務」と呼ばれる従業員のボランティアで建設された。新居浜の都市形成には、金銭だけではなく多くの労働力も費やされた。この山根グラウンドは、面積を一部縮小したものの、引き継がれ新居浜市を代表する新居浜太鼓祭りの重要な舞台として機能し続けている。

このように新居浜市の歴史を鑑みると、歓楽街をはじめとした都市の感性的な情報処理を担う<右脳>や<左脳>の位置はむしろ定まらず、その時々によって位置をかえている。むしろ、<脳幹>としての住友が必要に応じて、様々な施設をお金と人を導入して建設し、自然発生的に都市を作り出したように見えてくる。日本の各地には見られない非常にユニークな都市形成である。だが現代では、都市形成における脳幹の機能が当時よりも薄まりつつある。このユニークさを、どう引き継ぎ今後の都市像を描いて行くか、今まさに岐路に立たされているのではないだろうか。(山田)

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参考文献

篠部裕ら:企業都市における企業の都市施設整備に関する研究―新居浜市を研究対象としてー、日本都市計画学会研究論文集、pp223-228、1992
岡田昌彰:瀬戸内における産業風景の重層性、土木史研究講演集vol.28、pp279-285、2008

種別 都市
所在地 愛媛県新居浜市
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