ドボ鉄119橋梁設計の国産化

絵はがき:関西本線・木津川橋梁(京都府相楽郡笠置町)


 鉄道技術の導入にあたって、構造物の設計を自国で行うことは、近代工業国家として克服しなければならない大きな課題であった。導入期の鉄道橋梁の設計は、いわゆるお雇外国人に一任され、明治20年代にはイギリス人技師のチャールズ・アセトン・ワットリー・ポーナルによる標準設計が完成していた。日本人技術者の設計によるトラス橋も、平井晴二郎の設計による幌内鉄道・入船町陸橋、原口要の設計による官設鉄道・上碓氷川橋梁などいくつかの例があったが、しばらくの間は外国人技師に委ねられていた。
 1897(明治30)年に完成した関西(かんせい)鉄道・木津川橋梁(現在の関西本線大河原~笠置間)のトラス橋は、当時、関西鉄道社長であった白石直治と同社建築課長の那波光雄によって設計された。設計計算書は両者の連名で「Design for a skew bridge-work for the Tsuge-Nara line(柘植-奈良線の斜橋の設計)」(関西鉄道・1897)と題して英文でまとめられ、イギリスの橋梁工学の権威であったサー・ベンジャミン・ベーカーの校閲を受けた。那波はのちに京都帝国大学教授を経て鉄道院工務部設計課長に就任し、鉄道国有化後の橋梁の標準設計と取組んだ。
 木津川橋梁は、機関車荷重の増加に対応するため、1925(大正14)年~1927(昭和2)年にかけて改良工事が行われ、主径間の支間200フィート(約61m)の平行弦プラットトラスを新設計の曲弦トラス橋に架替えたが、側径間として架かる支間100フィート(約30m)のポニーワーレントラスはランガー補強を行なって再利用され、煉瓦造+石積みの橋梁下部構造とともに現役で使用され続けている。
 なお、今回紹介する絵葉書のキャプションには「京都保津川之鉄橋」とあるが、ほぼ同時期に完成した京都鉄道(現在の山陰本線の一部区間)の保津川橋梁は単径間の曲弦トラス橋なので、明らかに誤記である。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2022年8月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

白石直治はどんな方ですか?

A

 白石直治(しらいし・なおじ)は、1857(安政4)年10月29日に現在の高知県南国市で生まれました。東京大学理学部工学科で土木工学と応用地質学を修め、1881(明治14)年に同校を卒業したのち、農商務省御用掛(地質調査所)を経て東京府庁土木課工事部御用掛に転じました。1883(明治16)年に官費留学生として渡米して、レンセラー工科大学で土木工学を学び、さらに現場実習を行なったのち、ヨーロッパ経由で1887(明治20)年に帰朝しました。帰国後は帝国大学工科大学土木工学科の教授に就任しましたが、1888(明治21)年に関西鉄道が設立されるとその建設工事監督として迎えられ、工科大学教授と兼務しましたが、1890(明治23)年には関西鉄道の専任となり、社長に就任したほか工学博士の学位を授与されました。
 関西鉄道では、汽車課長として島安次郎、建築課長として那波光雄を採用してその実現にあたり、1898(明治31)年には関西鉄道の名古屋~網島(大阪方の終点)間が全通しました。全通を見届けた白石は関西鉄道社長を退任し、同郷の仙石貢が社長をしていた九州鉄道取締役となりました。その後、若松築港社長、三菱合資神戸支店神戸船渠工事設計監督、猪苗代水力電気専務取締役などを歴任したのち、1912(明治45)年の総選挙で高知県から立候補して衆議院議員に当選しました。1918(大正7)年、出張の途中でにわかに体調を崩したため鎌倉の別荘に戻って静養し、1919(大正8)年1月には土木学会会長に就任したものの病状は思わしくなく、同年2月17日に永眠しました。(小野田滋)


Q

那波光雄はどんな方ですか?

A

 那波光雄(なわ・みつお)は、1869(明治2)年8月10日、現在の岐阜県大垣市で生まれ、1893(明治26)年に東京帝国大学土木工学科を卒業して関西鉄道へ入社しました。関西鉄道では、社長の白石直治のもとで建築課長として揖斐川橋梁の架設工事や木津川橋梁の設計を行いました。木津川橋梁の工事を終えた那波は、関西鉄道を辞して1899(明治32)年に京都帝国大学土木工学科の助教授に就任しました。翌年にはドイツのベルリン工科大学へ留学を命じられ、1902(明治35)年に帰朝して教授に昇進し、1904(明治37)年には工学博士を授与されました。
 1905(明治38)年8月に京都帝国大学を辞職し、九州鉄道工務課設計係となったのち1907(明治40)年の九州鉄道国有化によって帝国鉄道庁中津建設事務所長に就任し、日豊本線などの建設工事を担当しました。1915(大正4)年、本院の工務局設計課長となり、さらに1917(大正6)年には東京帝国大学工科大学教授を兼任して再び実務と学問の双方に携わりました。1919(大正8)年には総裁官房研究所長となり、1926(大正15)年に鉄道省を退官した後も、引き続き東京帝国大学講師として1936(昭和11)年まで鉄道工学を担当し、1931(昭和6)年には第19代土木学会会長も務めました。また、かつてお雇外国人に仕えた人々を訪ね歩き、1942(昭和17)年に土木学会から『明治以後本邦土木と外人』を上梓しました。その後、鉄道界の長老として自適の生活を送り、1960年(昭和35)年4月1日に他界しました。(小野田滋)


”関西本線・木津川橋梁(京都府相楽郡笠置町)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

保津川と木津川を間違えるなんて、そそっかしい絵葉書屋さんですね。 

師匠

まあ、「保」と「木」を間違えただけだし、そもそも間違えに気がつく人もほとんどいなかったんじゃないかな。

小鉄

師匠も呑気ですね。

師匠

昔の絵葉書はよく調べると、修正されていたり、写真が裏焼きだったりするから、注意が必要だ。

小鉄

たとえば?

師匠

夜景の絵葉書で、月が見えないはずの方向に満月が出ていたりするぞ。

小鉄

そのまま信じちゃダメってことですね。

師匠

木津川橋梁の絵葉書も着色されているから本物のように見えるが、ほんとうにこの色だったのかどうかはわからない。

小鉄

どういうことですか?

師匠

煉瓦や石材の色は今も昔もほとんど変わらないはずだが、トラス橋の色は違っていた可能性もある。

小鉄

赤や緑だったかもしれないってことですか?

師匠

木津川橋梁の色は記録に残っていないが、当時のほかの橋梁の建設記録を調べると、鉄道橋は「鳶(とび)色」で塗った例が多かったようだ。

小鉄

「鳶色」って、あまり聞いたことのない色ですけど。

師匠

鳥の「トンビ」の色で、やや赤みがかった茶褐色だ。

小鉄

ずいぶん地味な色だったんですね。

師匠

絵葉書のトラス橋も茶色く塗ってあるから、全く的外れでもないと思うぞ。

小鉄

何でもっと見栄えがする明るい色を使わなかったんですか?

師匠

当時は蒸気機関車の全盛時代だから、明るい色で塗るとすぐに煤(スス)で汚れてしまうことになる。

小鉄

なるほど。

師匠

だから、蒸気機関車や貨車は黒色で、客車は茶色というのが当時の定番だった。

小鉄

明るい色を塗ってしまうと、汚れが目立つってことですね。

師匠

カラフルな色を使いはじめるのは、電車が普及してしばらくしてからだ。

小鉄

師匠は無精だから、暗い色の服を着て汚れが目立たないようにしていた方がいいですよ。

師匠

余計なお世話だ💢

諸元土木史論文1土木史論文2
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